途中で読むのを休んだりしながら、ゆっくり読み進めました。他の方の感想等もwebにぼちぼち上がって来ていたようなのですが、自分の読後感をまっさらのままで味わいたくて(&「神様と私」の関係の中で個人的な語りかけも求めていたので)それらは読まないように気をつけていました。
で、率直な感想ですが「期待通り、非常に面白かった!!!!!!」です(笑)し、個人的な語りかけも頂けたかな。
私はプロテスタントのクリスチャンでいわゆる福音派(
福音主義)の教会に所属しているのですが、信仰的にも、来春から公立の小学校へ娘を送り出す親としても、大きく励まされとてもすっきりさせて頂けたのです(非常に感謝)。
かつての自分を含め、一部の福音派のクリスチャンがあまりにも科学や科学者に対して敬意の無い失礼な姿勢であり言動をしているのも、とても申し訳なく、また哀しく思わせられました。
「
ゲノムと聖書 科学者、〈神〉について考える」が届く前に、「
キリスト教は進化論と共存できるか?—ダーウィンと知的設計 :フランシスコ J.アヤラ」を読んだのですが、予備知識としてウィリアム・ペイリのことやダーウィンについて簡潔でわかりやすく書いてあったのでとても参考になり、同時に今まで進化論についても、IDについ(←これについては特に)ても自分できちんと調べたり本を読んでこなかったことをとても反省させられていました。
著者のアヤラ(カリフォルニア大学アーヴァイン校生物・生物学・生態学・進化生物教授、ヒトゲノムプロジェクト審議会顧問、全米アカデミー評議会員、2001年全米科学賞受賞)はカトリックだからなぁ〔ヨハネパウロ二世が進化論に好意的な発言をしている等のことは知っていたので)・・なんて色眼鏡気味で読み始めたことも大反省。
・・・幼児の頭が容易に通過するには、女性の産道がきわめて狭いことを考えてみよ。
それゆえ、何千何万という赤ん坊や多くの母親が、分娩の間に死ぬのである。この機能しない設計に、あるいはこどもたちの死について、神に責任を帰すことを、我々が望まないことは確かである。科学のおかげでそのことは理解できる。つまり、我々の脳が進化してきた結果なのである。他の霊長類のメスは、この障害を経験しない。過去の神学者は、機能障害との問題と戦った。なぜならばそのことを神の設計に帰さなければならない、と思ったからである。欠陥、形成不全および機能障害を自然的原因に帰する説明を、科学が納得いくように提供したことで、多くの神学者たちを安心させている。」(「キリスト教は進化論と共存できるか?—ダーウィンと知的設計 」より)
例えば上記引用のような箇所等から(個人的に先日から「
不完全なままで召されていること(
ここや
ここを参照)」というのを何度も思わせられていたことも引き金になって)『
進化って、プロセスを大切になさる神、そして自由意志を大切になさる神のご性質を表すモノではないかしら』と思わせられたり、「たとえ猿から進化して来たとしても、人として霊を与えられている人間がこうして存在していることは、聖書にまったく矛盾しないのではないか」と思わせられたりしていたんです。
「ゲノムと聖書 科学者、〈神〉について考える」では、さらに詳しく知ることが出来たのはもちろん、著者(フランシス・コリンズ/遺伝学者、医師。エール大学より物理化学博士号、ノースカロライナ大学より医学博士号を取得。全米科学アカデミー及び医学院会員,二〇〇七年にはアメリカで文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受賞)の信仰的なスタンスは自分と非常に近いものでもあり、大好きなC・Sルイスの著作の中で福音派のクリスチャンとしてどうしても?だったところ(たとえば、この書籍は実物は読んだことはないのですが「
痛みの問題」の以下のような箇所・これ↓は「ゲノムと聖書」p204-5に引用してあった文章からの抜粋です)などが、本当にすっきりと理解できました。
神は千歳にわたり、人間の魂を宿し、神自身の似姿を反映するべき動物の形態を完成させた。神はその動物に、親指ともう一本の指でものをつまめる手、また発声を可能にするあごと歯と喉をお与えになった。そして、理性的思考を生み出すのに必要なあらゆる働きをつかさどる、複雑な仕組みの脳を備えられた。その動物は、人間になる前に、もう長い間そのような状態で存在していたかもしれない。もしかしたら、現代の考古学者が人間性の証拠として見なしている、いろいろな道具を作る能力をすでに兼ね備えていたかもしれない。しかし、その身体的、精神的過程の目的はすべて、純粋に物質的・本能的だったので、そsれはなおも動物に過ぎなかった。だが、時が満ちたとき、神はこの生き物に、心理学的にも生物学的にも新しい認知能力をお与えになったのである。すなわち「自己」を認識し、自らを客観視でき、神を知り、真理と美と善に関する判断ができ、時間をはるかに超越するがゆえに時の流れを知覚することのできる意識である。(「ゲノムと聖書」p204-5より)
この引用の後にコリンズはこう書いています。
信者が創世記一章と二章の解釈で妥協してしまうなら。滑りやすい坂道を転がり落ち、しまいには神の基本的な真理と奇跡的な行為まで否定してしまうのではないか?信仰の真理を骨抜きにするような、無制限の「自由主義的な」神学には明らかな危険があるだろう。しかし成熟した観察者は、滑りやすい坂道でも分別ある判断をし、どこで踏みとどまるべきかを知っている(「ゲノムと聖書」p205より)
決して私自身が成熟した観察者であるというのではありませんが、なるほど、と思わせられました。聖書を読んでいると、神が私たちに成長や成熟、大人になるようにと何度も勧めておられるのがわかりますが、ここを読んでそれ(らの聖句)を鮮やかに思わせらたのです。
神は私たちに成長して欲しいと思っておられる、祈りつつ自分で知識を得て選択して欲しいと思っておられる・・。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛することと繋がる気もしました。
有神論的進化論なんてものがあることすら、恥ずかしながら私は知りませんでした・・・。
頭ごなしに創世記は一字一句事実であり、それを信じなければ自分たちの信仰はなりたたないという福音派の一部にある強い風潮が、こういう知識に疎くしていたのだと思います(同時に伝道もしにくくしたり、求道者に混乱を招いたり)。
しかも結局はそれで自分で自分の頸を閉めてしまう・・、これは非常に怖いことです。
真理は私たちを自由にすると聖書にはあるのですが、これでは縛られ捕らわれている感じさえします。
先祖が猿であっても、創世記の解釈が字義的でなくても、偉大な神でえあるということに問題はなく、また聖書の権威もなんらおとしめられないのではないかという思いに導かれ、それは私を解放してくれました。
私の拙いメモや引用箇所だけではわかりにくく誤解も招きやすいと思いますので、興味を持たれた方は実際に書籍をお読み頂ければ・・、と思います。。
ダーウィンの『種の起源』が出版されるよりもはるか昔から、同じように誠実な信者たちが、聖書のすべての記事を字義通りに解釈することに対して異議を唱えてきたし、今日もそうであることを考慮してもいいのではないだろうか。宇宙のすべてを創造し、祈りや霊的な洞察を通して自分が創造した民と意思の疎通をはかる神が「わたしを愛するなら、科学が解明した自然界の明白な事実を無視しなさい」というとは到底思えない。(「ゲノムと聖書」p206より)
神への脅威のように見えるからと言って、自然界の理解を深め、人類の苦悩を軽減し、生活を向上させる科学の効用に背を向けるのか?あるいは逆に、科学が進歩した今、もはや霊的生活は不必要なのだから、祭壇には伝統的な宗教のシンボルの代わりに二重らせんを刻めばよい、といって信仰に背を向けるのか?
どちらの選択も、大変危険である。共に真理を否定しているからである。どちらも人類の崇高さをおとしめる。そして、どちらも不必要な選択である。聖書の神は、ゲノムを造った神でもある。神を礼拝することは、大聖堂でも研究所でも出来るのだ。神の創造は壮大で、畏敬に満ち、複雑で美しい。
真理同志が互いに争うことなど出来などできない。そのような戦いを始めたのは不完全な我々人間なのだ。そして、それを終結できるのも我々人間だけなのである。(「ゲノムと聖書」第10章バイオロゴス選択肢(4)科学と信仰ー本当に大切なことp206-207より・太字は鹿子による)
そして、個人的には特にナイジェリアへ医療ボランティアとして渡ったときのお話しが書かれている圧巻のp212-214←ここを読むためだけにこの書籍を買っても損は無いとすら私は思います!
ううぅーん、どうしよう、他にも書きたいことは沢山あるのですが・・。
やっぱり、アウグスチヌス(アウグスティヌスが正しい表記?)は読もう(訳が読みにくいそうですが)、それとCSルイスの著作で引用されていたモノは再読も含めて読みたいし(でもなかなか手に入らないものもあるんですよね)、グールドやドーキンスも!
そうそう!実は私の特技も「替え歌」です!(いつもプロフに書こうと思うのですが、恥ずかしくてやめていたんです・・でも、コリンズ博士と同じなんて嬉しくて嬉しくて、ついにカミングアウト!・・ってアタシの方のレベルはかなり低いと思いますが・汗)
追記
関係ないのですが、アヤラ(イタリア人)もコリンズもフランシスなんですねぇ。
アヤラはカトリックだから分かるんですが、コリンズの両親は無神論者(でもHSをしていたんですよ!)だったとのこと・・不思議だなぁ。