2008-11-08

読みたい本memo:山田耕太著『ダラム便り』他

晴耕雨読の日々 : 日本のキリスト教ー「カトリシズムのない世界」:
"・・誤解を受けることをあえていうならば、日本にはヨーロッパでいう「教会」はない。教会と無教会を問わず、「日本の教会は、すべて無教会である」と指摘した石原謙氏の言葉(『日本のキリスト教』)は、正しいと思われる。無教会という現象は、日本という土壌で生まれるキリスト教現象の純粋型という感じさえする。キリスト者は、それほど違わないが、「教会」の機能が教会自体の問題として異なり、また、社会あるいは文化のなかではたらく機能が異なる。「教会」は普遍的制度的施設(アンシュタルト)としての性格を保持し、聖餐もバプテスマも、罪を赦し、救いをあたえるというサクラメントの機能を保持する。日本の土壌では、公けの「教会を信ず」というよりは、個人の「信仰を信ず」という感じがする。こちらでは、牧師は、ただの ー教会の機関を司る ー人であるのにたいし、日本の土壌では、牧師は特別な人 "先生" になる。したがって、「牧師につまづく」ということは、こちらではありえないし、一人の人格が教会に反映されることを牧師も信者も恐れる。このような「教会」の背後には、カトリシズム ー普遍性ーがある。カトリシズムをへたあと、十九世紀に日本にもたらされたキリスト教は、カトリシズムなしに、どのような教会を形成していくのであろうか。・・・"


今のところネットでは見あたらず。
キリスト教古書のお店にいってみようかな。あ、ドンボスコの「完徳の道」も見てこようっと(やっぱり岩波の古書は読みにくいのでした・・)。


それと、同blog(「福音派の禁書?」という記事にある:有賀 寿著『カゴの鳥と見るな 聖書の福音と福音派の福音』すぐ書房)にも興味があります。でも手に入らないみたいですね・・って私なんかが読んでもワカラナイかも知れませんけれども・大汗
「・・・本書は福音派の皆が間違っているとはいいません。しかし多くは間違っていると考えます。皆が福音を曲げているとはいいません。しかし多くは福音をみるも無惨な形に変えています。また、決心者のすべてが道を誤らされたとはいいません。しかし、極めて多数の人は、いかさまな救いをつかまされたといえます。それでいて福音派のクリスチャンは、聖書がどう伝道を教えているか、主イエスがどう福音を語られたかについて、改めて学ぶ必要はほとんどないと思っています。非常にたくさんのクリスチャンたちは、伝道者・牧師・宣教師・外人講師の話をただ鵜呑にし、それが聖書の教えと一致するかどうかを調べようとはしません。そうする必要も認めません。なぜか。それは彼らが「カゴの鳥」とされているからです。ではカゴの鳥とは何か。自分で自分の住まいを作るわけでなく、食糧を集めてくるわけでもなく、生きる努力をするわけでもない鳥。これをわれわれはカゴの鳥といいます。いいご身分だなと思われて生きていくのがカゴの鳥です。生まれおちる時からこういう生活をエンジョイし、その生活になんの不思議も抱かないのがカゴの鳥なのです。そして、福音派のクリスチャンの多くは、まさに「カゴの鳥」なのです。生まれでる時に聞いた「福音」を鵜呑にしてクリスチャンになったように、以後はずっと鵜呑の生活をしてきました。カゴは「トレイニング・クラス」という名で呼ばれていますが、そこで何をどう歌うのかを教えられると、その通りにしてきました。それが結構楽しいことも経験してきました。しかし、何も考えない。自分では何も考えない。これは「カゴの鳥」の問題です。あなたはいかがですか。」・・・(以下略)

・・・・(ここまで中略)・・・・チャントリー自身はカルヴァン主義の立場に立ちつつ(長老教会
出身)、次のように言います。


「聖書の確信についての教えは今日、わずかな人にしか理解されていないようである。信仰を告白したクリスチャンが自分の生まれ変わりのいかんを疑問におもうことを評価する人はごく少ない。彼らは神が約束を履行されることについてはなんの疑問ももっていない。しかし、自分がかかる約束を受け嗣ぐにたる条件を正しく果たしているかどうかには、疑問をかんじているのである。すべて悔い改め信じた者に、神が永遠のいのちをあたえるであろうことに、問題はない。しかし、通路をとおり抜けて前に行き、いのりのことばをまねして口にしただけで、信仰があたえられたとしてよいかどうかを、彼らは正当に反省しているのである。教理問答書をみれば、自分がうけためぐみが簡単にぬぐい去られないことは明らかだが、それならそのめぐみを自分は経験したか。「自分はほんとうに、信じかつ悔い改めたか」。神のめぐみを自分はほんとに受けたか。
「人の心は何よりも陰険」(エレミヤ一七9)だとすれば、この点は検討に値する。また、ユダのような自己欺瞞的な偽善者のいることを知っているなら、これは抜かしてはならない疑問である。「救われるには、どうしたらよいか」という質問は、「そうした(信じた)ことは、どうしてわかるか」という疑問と全くちがう。最初の質問には人はすぐに答えられる。しかし、第二の疑問に確かな答えができるのは、聖霊だけなのである。」   (『カゴの鳥と見るな』 pp. 130-131)


『カゴの鳥と見るな』は、キリスト教書店で長らく "禁書扱い"
でした。そうこうしている間に絶版となってしまいました。
しかし、自浄作用のないキリスト教会、「クリスチャンの始末は、
クリスチャンがつける」ことができなくなっている今日、再び
読まれる必要があるのかもしれません。
・・・以上:晴耕雨読の日々:blog記事「福音派の禁書?」より引用


晴耕雨読の日々blog、おやめになったのですねぇ。やっぱりという気持ちと残念な気持ちが交錯ちう・・。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「かごの鳥・・」持ってたけどな。
実家で埋もれてるかな。
鹿子さんに「わからない」ような本では
ありませぬ。私が読んだのは20年ほども
前。KGKの学生だったころ。
今読んだらどう思うんだろ。

今度探してみますわ。

Unknown さんのコメント...

え?持ってるんですか〜!?
わぁー、もし見つかったら是非是非、貸してやって下さいませ!
気長に待っています〜。

20年前かぁ、転勤で福岡に行っていた気がする・・って、うぅ〜アレってもう、そんなに前の事なのか・・(−−;

Unknown さんのコメント...

何気に検索してみたら「ダラム便り」アマゾンマーケットプレイスで600円だったー!ってことで、ゲト。早く届かないかなぁー。わくわく。