2008-10-23

今更ですが、苦難の中の忍耐って凄い証なんだよね。
朝の掃除で、ちあのニュースレター関係を整理していて、Sさんの分科会(白馬かな?)の短い紹介文を読む。
「子どもが信仰から離れる(た?)ときのこと」を話されるようだ(聞きたいですねぇー!)
Sさん(ご夫妻は牧師夫妻でもあり主にあって非常に素晴らしい方々です)にはお子さんが三人おられ、上のお二人が中高生くらいの年齢からいわゆるダブルスタンダードの苦しみ試みに会い信仰を離れていまった経験から、末のお子さんをHSなさっている。もう十年くらいでしょうか。
何年か前には、ご主人が倒れられ、奇跡的に回復したけれども一昨年前辺りだったか召された。
そのいろいろな局面をニュースレターやビデオで拝見させて頂いていたので、短い言葉の中でも感じるところは多かった。ロマ5章(4節から5節)の御言葉を出されていたけれど、まったくそういう道を歩んでこられたのであろうと思わされた。どんなに苦しく辛かったことだろう。
奥様の祈りお働きはもちろんなのだけれど、このご主人は本当にご自分の命(全て)を持ってこどもたちを主の道に戻したのかも知れないな・・なんても思わせられる。
上のお二人はそれぞれクリスチャンとの結婚が決まったそうだ(主を讃えます!)。


その中を通されていることは傍目にはわからないことも多い。
もちろん、わかりやすい働きも大切だし、その為に神はそういった賜物を与えていらっしゃる。けれども、その分かりやすい働きの中でも外見ではわかりにくい部分におけるしみ入るような証も多い。

どちらにも忍耐の時があって練られた品性というものが生み出され・・やがて希望を力強く証しする、・・主は豊かに用いられるのだ。(こうして文章にすると、なんとも単純で簡単な印象を与えてしまいそうで申し訳ない思い)

本当に、目に見えるところだけで判断してはいけないのだな・・とつくづく思う。

そして、こういうことを踏まえて、やはり「裁きは主がなさること」なんだよね。



*関係ないのですが、わたしの場合blogで敬体、常体を統一しようとすると、なんだか冷たい文章になるような気がして(&自分の感じていることを表せないような気がして)敢えてごちゃまぜ(といいつつ、本人にはそれなりのルールがあるような気もするのですが)にしていることが多いと思います。

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