2008-07-16

1 Corinthians 4; 1 Kings 17; Amos 1

エリヤが出てきた。
今年は、なんとなくややしみじみ(←変な表現ですが)「ああ、こういうときにエリヤがでてきたんだな」と思わせられる。
少し前に藤本満先生の「エリヤとエリシャ」を借りて読み始めたからだろう。

書籍ではまず時代背景が書かれていて、冒頭の聖句は「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」。
家庭における親の影響力。往々にして巻かれた苦々しい種を刈り取るのは親ではなく次世代を担う子どもであると藤本師は続ける。
聖書でもそういうことを、ずっと読まされてエリヤが出てくるわけだ(まぁ、もちろん親が刈り取っているところもあるわけですが、子どもへの影響は計り知れません)。

思い出しつつ、またしばしゲロゲロに落ち込む。

しかし、コリント書を読みながら少しずつ、私を裁く方は主である事を思わせられる。
わたしたちは主が来られるまで先走った裁きをしてはいけないのだ。これは自分に対しても同じなのである。
1コリ4:7では「・・神から各人に対する賞賛が届く」というパウロ。これは昨日の箇所「火の中をくぐるようにして助かる」というところと通じる。
これってパウロの全き神への信頼から出ている言葉だよね。
こうタイプしながら、「ああ、だから生きるにしても死ぬにしてもキリストと大胆にはっきりと力強く表現出来たのだ」と思う。弱いところも歴然とあったのに。

わたしじゃないのだ。
わたしじゃないのだ。
わたしじゃないのだ。

何をうだうだしていたんだろう。
何を先走っているんだろう。

主はこんな愚かな私に今もこの瞬間も圧倒的な愛を降り注いで下さっている。
降り注ぎ続けて下さってるのだ(;。;)

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