2008-07-23

1 Corinthians 10; 2 Kings 3; Amos 8

1コリント10:13といえば、クリスチャンの多くが何度か励まされた経験を持つ聖書の箇所ではないだろうか。
私もそうだ。しかし個人的に忘れがちなのだけれどこの聖句の前にあるパウロの文章はとても強い戒めに満ちたものだ。そして「ですから、偶像礼拝をさけなさい」「判断しなさい」と続く。そして「すべてのことはしてよい。けれどもすべてのことが得を高めるとは限らない」とまた繰り返される。

2列王、藤本満先生の「エリヤとエリシャ」をほぼ平行しながら読んでいる。
私たちに「なにをして欲しいのか?」とお聞きになる主を前にして「何もありません」「いえいえ、これで十分です。結構です」と遠慮することを主は決して喜ばれないというようなことが書いてあった(大意)。私たちは主を前にして、心のうちにあるものを露呈することになることを覚えておかなければならない。
主はどうにご存知だけれど、私たちが自主的に差し出すのを待っておられるのだ。
「求めなさい、叩きなさい」と聖書でも繰り返される。

主の言葉を聞く飢饉が来るとアモスは告げられている。

ふと、一昨日くらいの箇所で、主はあのアハブにさえも、「彼が私の前にへりくだっているので、生きている間はわざわいをくださない」(1kings21:29)とおっしゃる方であることを思い出す。
そうだ、怒るに遅く恵みに溢れた主は今をご覧下さる。今、私が主の前にどうなのか。これは大変な祝福だ。主はなんと哀れみ深い方であろうか。

同時に示されたのは「生きている間は」ということ。

罪が後世に与える影響(彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す)、死後の裁き、これらは決して無視出来ない。
主の聖(きよ)さ。歴然と引かれている境界線。

しかしその主が(同時にといっていいのかな)差し出して下さっているものは福音なのだ。
*ちょっと分かりにく書き方ですね/反省

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