上級トピック
i-FunBox や DiskAid と言ったソフトウェアを利用する事により、USB 経由で SkyBook に独自のデータをインストールする事が可能です。
via sb.aill.org←詳しいやり方はクリック!
やるぜ!
こういうことは、palmでもWindows Mobileでも今まで散々やってきたことなので苦にはならん(はず)。
婆母切支丹マカ-Mac iPhone7 iPadPro12.9&10.5 Applepencil iPad-mini Kindle(Paperwhite,Fire)ユーザ主婦:谷川鹿子の日々徒然
上級トピック
i-FunBox や DiskAid と言ったソフトウェアを利用する事により、USB 経由で SkyBook に独自のデータをインストールする事が可能です。
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Mac 版 Google Chrome に関するメール配信にご登録いただきありがとうございます。Mac OS X 版 Google Chrome のベータ版がついにリリースされました。--------
73,804 行の Mac むけのコードを記述
29 回の開発ビルド
1,177 件の Mac 関連のバグを修正
Mac 版 Google Chrome のコードベースに、外部から 12 人のコミッターとバグ修正者、48 人のコード提供者が参加
8,760 杯のジュースとコーヒーを消費
上記を経て、本日やっと Mac 版 Google Chrome のベータ版を提供するにいたりました。
Mac ユーザーの皆さん、本当にお待たせしました。Mac 版 Google Chrome をぜひお試しください。
Google Chrome チーム
www.google.co.jp/chrome
2009年12月 2日(水) 待降節第1週 第2周年
マタイによる福音 (マタイ15・29-37)
そのとき、イエスはガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利(き)けない人、その他(た)多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑(くず)を集めると、七つの籠(かご)いっぱいになった。祈りのヒント
山に登り、
座ったイエスの足元に、
大勢の病人を連れて来て、
横たえる群衆。
私たちもただ、
そうしさえすれば、
イエスは癒してくださる。
心、身体、お金、人との関係・・・
様々な不自由に苦しむ私たち。
それらをありのまま携え、
信頼して祈る時、
イエスが働いてくださる。
私たちがなすべきことは
イエスのところに
行くことだけ。
画: ベエ
(毎日の祈り 2009/12/2)
2009年12月 1日(火) 待降節第1週 第2周年
ルカによる福音 (ルカ10・21-24)
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子(おさなご)のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心(みこころ)に適(かな)うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
祈りのヒント
私たちの目が
開かれた時、
イエスは抑えきれないほどの
喜びを感じられる。
神の道具として派遣され、
主が見せる業に
目が開かれた時、
喜びにあふれて、
特別なものとして
私たちに語りかける。
イエスは、
私たちが父である神を知る
ただそのことのために
来てくださった。
毎日の祈りより
マタイによる福音 (マタイ4・18-22)
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼 らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の 兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人 もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
祈りのヒント
イエスは私たちを呼ばれる。
外で活躍する人も、家で慎ましく働く人も。
イエスは私たちを呼ばれる。
信仰深くても、弱さと傾きに満ちていても。
「私について来なさい。」と呼ばれる。
今、
握りしめている何かを捨て、従うかどうか私に問われている。
毎日の祈りより
恐れないで思い煩わない事。
そしていつもイエス様が「いついらしても良い様にしておける事」をお祈り。
まず、喜びたいなぁ。
イエス様が再びいらっしゃるのは、なんといっても嬉しいことなんだよね^^
今日からアドベント♬
ルカ21・29-33
そのとき、イエスは弟子たちにたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既(すで)に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
祈りのヒント
紅葉した葉を
一枚手に取って眺めてみる。
秋になったことが分かる、知識と体験によって。
色づいた葉を見ながら祈ってみる。
葉の色彩は神の業を感じさせる。
私たちは「神の国が近づいている」と悟ることまで出来る。
イエスの言葉に養われることによって。
(via:毎日の祈り 2009/11/27)
祈りのヒント
核兵器、貧困とテロ、そして地球温暖化、
現代社会を生きる私たちはなすすべを知らず、不安に陥る。
豊かな生活を追い求める経済至上主義が招いた結果である。この呪縛を解くのは誰か。
その方は「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る。」
主よ、自己中心的な生き方から「解放」し、より深くあなたの価値観で生きていくことが出来るようにして下さい。
(毎日の祈り 2009/11/26)より
妻と娘を愛する切支丹の吟遊詩人
ガットギターでゴスペルを歌うシンガーソングライター
ブラジリアンスタイルの弾き語リスト
介護士でアロマセラピスト
ちょんまげ神学生のおとうさん
日時:2009年12月12日(土)開場5:00pm 開演5:30pm
会場:お茶の水クリスチャンセンター8F
JR中央線御茶の水駅お茶の水橋口徒歩1分。マクドナルド手前
チケット代:1,000円(当日券あり)
涵養(かんよう、地下水涵養)とは、地表の水(降水や河川水)が帯水層に浸透し、地下水が供給されることを言う。
表流水(河川や湖沼等)に水が供給されることについては、この用語を用いることはない。
.............提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ルカによる福音 (ルカ21・5-11)
そのとき、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他(た)の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」イエスは言われた。「惑(まど)わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更(さら)に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉(ききん)や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」
祈りのヒント
移り変わる時代の中で変わらないものがある。
それは「対話」による知恵の涵養。
膨大な知識も太刀打ちできない、真の「学び」へと導く。
それは「真理に根ざした愛」につながっていく。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れるが、ついて行ってはならない。」
人生の師はただ一人、それはイエス。
主よ、あなたとの親しい交わりを通して、あなたの知恵を授けてください。
(毎日の祈り 2009/11/24より)
ルカによる福音 (ルカ21・1-4)
そのとき、イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱(さいせんばこ)に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏(とぼ)しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
祈りのヒント
なぜ、この貧しいやもめは、生活費全てを献金することが出来たのか。
それは、神に対する感謝の出来る限りの表現だったに違いない。
明日は分からないが、今日一日生きることが出来たのも、神の愛を深く実感できたから。
この確信が明日を生きる力の源になっていく。
主よ、もっとあなたの愛に委ねて生きることが出来ますように。
(毎日の祈り 2009/11/23)
ルカによる福音 (ルカ20・27-40)
そのとき、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁(とつ)いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴(しば)』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
祈りのヒント
復活というのは「生き返らせる」を意味します。
そしてそれ以上は死なない、永遠に生きることを意味します。
人間が永遠に生きる状態ならば、生活習慣の次元が
異なります。
単なる結婚だけではなく価値観も変わるでしょう。
復活は、変われない人間を変わらせる要諦です。
毎日の祈り:2009/11/21
ルカによる福音 (ルカ19・45-48)
そのとき、イエスは神殿の境内(けいだい)に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀(はか)ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
祈りのヒント
商売をするのは売る人と買う人がいることです。
しかし、イエスは買う人については何も言いません。
売る人の目的と買う人の目的は異なります。
私たちも物を売る人の心で教会に通っていないか、心を見てみましょう。
ルカによる福音 (ルカ19・41-44)
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しか し今 は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁(ほうるい)を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地に たたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
祈りのヒント
イエスが泣く理由を考えて見ましょう。
神が涙を流しながら私たちに願うのは何故でしょうか。
私個人に頼むことは何でしょうか。
私たちが神に願うことと、神が我々に願うことの差がありますか。
それが同じだったら幸いでしょう。
(毎日の祈り 2009/11/19)
・・・・
(ⅰ)第一のハードル 〜 二重関係性の問題
自助グループでは、匿名性と守秘義務を基本としている。だから短期間で、深いグループ体験が生じる。通常、グループで出会った人とは、グループ外では会わない。連絡先も知ることができない。グループによっては、実名も知ることができない。カウンセリングでは、二重関係性の禁止という言葉がある。
もし、この枠をはずしてしまうと、非常な混乱が起きる。グループ・メンバーが、グループ外でも会うと、たとえば、秘密を知っていることで権威や主従関係が生じたり、たとえば、濃密なグループ内の関係性を体験したことで、擬似的な親しさや敵対心が生じたり、深刻な悪影響が生じてしまう。
さて、こうした事柄を考えると、日本において、ひとつの教会のなかで、自助グループを始めるとき、この二重関係性の問題のハードルが高いことに思い至る。グループで関わった人が、他の教会生活場面では、友人・知人として関わる。あきらかに二重関係になる。
この二重関係性をうまく超えることができるのは、いろいろな事例があるはずだが、すぐに思いつくのは、たとえば次のような展開や状況だ。・・・・
速報:DVD講演<宣教における女性の働き>販売が決定 | おふぃす・ふじかけ(blog): "速報:DVD講演<宣教における女性の働き>販売が決定 "
ルカによる福音(ルカ19・11-28)
そのとき、イエスは一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思ってい たからである。イエスは言 われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕(しもべ)を呼んで十ムナの金(かね)を 渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただき たくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進 み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の 町の支配権を授けよう。』 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言っ た。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔(ま)かないものも刈り取られる厳しい方 なので、恐ろしかったのです。』 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたの か。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々 に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既(すで)に十ムナ持っています』と言う と、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更(さら)に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところ で、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
祈りのヒント
私たちは恐れがある時、計画通りに行かない場合が多くあります。
福音の中の,一ムナを渡された僕は、恐れの中で自分の能力を発揮することが出来ませんでした。
恐れに負けないのは、ごく単純な考えから始まることかもしれません。
(毎日の祈り 2009/11/18)
今までは、おもに「イエスさまはいつもいっしょ」(幼稚園児代から使用)やCS成長ワークの後ろにある毎日の聖書(CSでのメッセージ箇所がカリキュラムどおりでないので違和感が出て来た)を使っていたが、母と同じものを使ってみたいとのことで。ちょうど、ザアカイさんのところで親しみや馴染みもあり、始めやすくて感謝。
ルカによる福音 (ルカ19・1-10)
そのとき、イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭(かしら)で、金持ちで あった。イエスがどんな 人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮(さえぎ)られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑(ぐ わ)の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日(きょう)は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深 い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。また、 だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
祈りのヒント
イエスに会いたいと願う人が信徒の中に多くいます。しかし、その願いが聞き入れられないのは理由があるようです。ザアカイは背が低いのがその理由でした。しかし彼はそれを超える努力をしてイエスとの出会い、救われます。今私たちに、イエスとの出会いに足りないのは何でしょうか。(毎日の祈りより)
ジェームス・ドブソン博士が
「来年の2月でラジオ放送の制作からも引退する」と発表した。
これは、理事会とご本人の一致した結論だという。
団体の代表の立場は、もう6年も前に後進に譲り、
今年の2月には理事長、理事の職からも退いて、
来年の2月には、自らが創立した団体から名実共に身を引くという。
3段階の引退の、最後の1段階となる。
73歳。健康上の問題があるわけではない。
今も、放送は続けており、これから4か月先まで続ける。
「女の子を育てる」という著書も執筆中である。
形としては「理事会からの引退のお勧め」らしい。"
神を知らない人々は皆、生来むなしい。
彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。その美しさに魅せられてそれらを神々と認めたなら、それらを支配する主がどれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。
神を探し求めて見いだそうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。
造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主をもっと早く見いだせなかったのか。
問題は「部品の病気」と「関係の病気」ということなのである。部分が治ったからといって、関係が治ったわけではない。
ふつうのシステムはいろいろな要素を組み立ててできるんです。スーパーシステム(多田さんには、スーパーシステム論という大胆な仮説がある。)は、要素そのものまで創り出しながら自己組織化していくシステムのことです。まさにすぐれた文学と同じです。
『生命の意味論』(新潮社)を読んでいたら、「人間は女がモトで、男は女があとから加工されてできあがった」と書いてあったでしょう。
スーパーシステムは自己創出系と言ってもいいでしょうね。ただし、最適解を求めているわけではない。生命には「最もよいという発想」がありませんからね。(中村桂子) 多田富雄も同意する、生命は、きっと曖昧の原理のようなものを最初から含んでいたんでしょう。
私(谷*鹿)は残念ながら、仕事でありんす(ーー;
都合のつく方には、貴重で良い機会では?託児ありですし!!
でもま、先生ご自身が「幼児や小学校の前半の小さなお子様の理解には、直接お役に立たないように思います。逆に、20歳過ぎの困ったお子様の理解などには、意外にヒントがあるかもしれません。」と明記して下さっておりますので・・(^^;母と子を守る会
2009.10.07 Wednesday by おふぃす ふじかけ以前、このブログ(注:「おふぃす ふじかけ」)に、私の一般向けの講演がないのか、との問い合わせをいただいた。
そういわれると、オープンな、かつ一般向けの講演というのは、ある時期からぱったりしなくなった。というより、そもそも私は講演家ではない。だから、ときおりする講演は、なるべく専門家向けであったり、あるいは一般向けでも継続講座(クローズド)であったりするものを選ぶように変化してきたのだと思う。
ところが、昨年、職場のボスからの直接の打診で、思わず引き受けた一般向け講演が久しぶりに間もなく開催される。…と、もったいつけたうえで、最近、そのチラシが送られてきたので、ここで宣伝したい。
講演の概要
*演題:「子どもの背伸びと息切れの心理」
*講師:藤掛明
*日時:2009年10月22日(木)10:30〜12:30
*会場:富士見町教会(2階ホール)
▼東京都内。JR飯田橋駅(西口)左向かいすぐ→地図
*主催:「母と子を守る会」 (委員長は、富士見町教会牧師の倉橋康夫先生)
*無料、託児あり、駐車場なし。
*予約不要。
チラシに載せた私のメッセージ
*私たちは、子どもが頑張ることを期待します。しかし、子どもが過剰に背伸びをし、息切れをしていることに、鈍感になっていることはないでしょうか。そうした子どもたちの姿についてご一緒に考えたいと思います。
ささやかな補足
*私は非行カウンセリング実務家出身ですので、思春期、青年期の問題理解に役立つと思います。が、幼児や小学校の前半の小さなお子様の理解には、直接お役に立たないように思います。逆に、20歳過ぎの困ったお子様の理解などには、意外にヒントがあるかもしれません。
*なお、話の内容は、私の定番・背伸びと息切れ論です。またか、という方も。
*クリスチャン団体の主催なので、講演開会に先立ち、(たぶん)賛美歌を歌ったりすると思いますし、私も講演の中で、聖書の人物ネタを少し使うかもしれませんが、いわゆる伝道集会(聖書のお話をし、教会にお誘いすることを目的とするイベント)ではありません。
*お近くの方はお気軽に!
市ヶ谷の援助修道会では、毎月第三土曜日『おかえりミサ』があります。午後3時からミサが始まる(4時)まで聖堂で祈りの時間を設けています。どうぞミサの始まるまでの時間を、神さまと静かに過ごす時間としてください。修道院までの地図はこちらをクリック
ちょっとメモ。
twitterで、はちこさんが下記の様なtweetをしておられ、アヤラの書籍にあった以下の様なところを思い出した。@mmesachi: 私は、宇宙の創造と、人の霊的形成(変容)にはパラレルなものがあると思う。神が瞬時にして宇宙を創造することはもちろん可能だったが、あえて長いプロセスを取ることを選ばれた。人の霊も、瞬時に造り変えるのでなく、敢えて長いプロセスを通ることを選ばれた
科学的知識は、宗教的信仰と矛盾するはずが無い。なぜならば科学は、啓示、宗教的現実、あるいは宗教的価値を指示する、あるいは反対する言葉を、何も持っていないからである。
全米科学アカデミーは、同じく次のように主張する。「ユダヤ教ーキリスト教の枠内で、多くの人々が、進化のプロセスを通じて神が働いておられることを信じている。
すなわち神は、絶えず変化している世界と、それを通じて長い時間に被造物が環境的変化に適応できる仕組みとの、両方を創造された*」。生物学者ケネス・R・ミラー、カトリック神学者ジョン・F・ホート、英国国教会司祭の生物学者で神学者のアーサー・ピーコック、および多くの他の神学者や宗教的著作作家は、神が進化のプロセスを通じて働く、と実際に信じている**。
アウグスティヌスは、すべての事物が神に依存するが、しかしまた、異なった意味で、自身の直接的原因、つまり遠い創造的原因に依存する、と主張した。「同じくアウグスティヌスは、それ自身の特定の現実、つまり世界のなかの神の原因的活動から区別される現実を、原因が創造された世界に与えようとした***」。
しかしながら、あるキリスト教徒たちは、進化論や科学的宇宙論を、創造の聖書物語に反していると考える。これらの信仰者は、自分たちの聖書解釈に基づいて、このような確信を持つ権利をもちろん与えられている。
けれども私は、「創世記」が宗教的啓示や宗教的教えの著作であり、天文学あるいは生物学の論文ではない、と断言したい。
その宗教的教えと同様に、世界に関してなされるすべての歴史的言及や叙述的言及は、聖書のなかで文字通りに理解すべきであると主張する人々は、聖書のなかに見られる矛盾した言明、つまり私が前に指摘したような「創世記」における二つの矛盾した創造物語、あるいは地球の周囲を回転する太陽といった誤った言明に関して、克服出来ない障害に遭遇する。
それゆえ私は、始めにここから出発した以下のような簡単なメッセージを繰り返すことによって、この著作を閉じたい。すなわち、神が世界を創造したことと同時に、諸惑星、山々、植物や動物が、自然的プロセスによって、最初の天地創造の後に、生まれたと信じることは可能である。真理が、真理に反することはあり得ない。宗教的信仰者は、現代科学の素晴らしい業績のなかに、信仰への脅威ではなく、神の栄光の現れを見るべきである。
フランシスコ・J・アヤラ著「キリスト教は進化論と共存出来るか?」藤井清久訳/教文館 より
注・・引用するにあたって段落等をblogで読みやすいように多少変えてあります。またボールドは、谷川鹿子によります。
* National Academy of Sciences, Teaching about Evolution and the Nature of Science
**Kenneth R. Miller, Finding Darwin's God; A Scientist's Search for Common Ground btween God and Evolution(この辺りの注は敢えてここに出さなくてもいいかな・とも。以下はまた後で気が向いたらメモしておきます)
***
キリスト教スピリチュアりティの指導者、著作家として世界的に知られ、多くの愛読者をもつヘンリ・ナウエンが、イエスの生涯、その誕生、宣教活動、受難、復活、聖霊降臨までの福音書の世界を案内。多くの著作から選りすぐった黙想で織りなすイエスのストーリーは、その独自の霊的な洞察を通して、思いもしなかった新鮮な福音の世界に導いてくれる。ナウエンの生涯に重要な霊感を与えたレンブラントの素描を併せて収録。 編者マイケル・オラーリンは本書の序文で次のように述べている。
「初代教会が“良い知らせ”と呼んだ福音は、ほとんどの場合、ある人が他の人へと語り伝えたものです。キリスト教信仰が伝わっていく上で、教師という存在がつねにありました。……ナウエンは、まさにそれを行った人物でした。彼は教師であり、神から遣わされた人であり、その使命は、神がこの世界で私たちのために何をし、私たちはそれにどう応じることができるかを示すことでした」
[本文ひろい読み]
はじめに マイケル・オラーリン(編纂者)
ぜひあなたにこの本を読んでいただきたいと思います。本書は、福音書を味わう新しい小径に案内してくれるでしょう。しかも、単独で行かねばならない旅ではありません。キリスト者が味わう最高の体験は、一人だけの寂しい時期に生まれることはまれです。あなたの旅のガイド役は、ヘンリ・ナウエンです。彼は現代のキリスト教スピリチャリティの分野で、最も影響力があり、最も好まれている著作家です。すでに見慣れた風景なのに、かつてないほどの驚きを感じながら旅していく中で、イエスのメッセージが新しい音色を奏で始め、心に響き渡るに違いないと確信しています。
ナウエンは福音書の中に、新しい、より深い意味を見いだし、イエスのメッセージに読者の心を開かせる特別な才能を持っています。私がそれを知ったのは、何度もこの目で見てきたからです。私が初めてヘンリに会ったのは、ハーバード大学でのことでした。彼は当時そこでキリスト教霊性を教えていて、私は同僚でした。ヘンリの授業は、講堂にあふれるほど学生が集まったことを今もありありと思い出します。涙を流しながら聞き入る姿を何人も見ました。ハーバードでめったにない光景です。クラスの誰もが、どんなに大きな衝撃を受けたことか。
「神のたどられた道」より
もしあなたが私に、「霊的に生きるとは、あなたにとってどういうことですか」と率直な質問をしたら、おそらくこう答えるでしょう。「イエスを中心に据えて生きることです」。生きている限り、数えきれないほどの疑い、問題、議論、困難など、注意を向けねばならないことがつねにあります。それにもかかわらず、私の過去三○年の生活を振り返って言えることは、私にとってイエスというお方がますます重要になってきた、ということです。
とくに何が重要になったかといえば、イエスを知ること、そしてイエスと結ばれて生きることです。ある時期、私は教会と社会の問題にすっかり気をとられ、生活全体が、延々と続くうんざりする議論のようなものになってしまいました。イエスを生活から追い出したり、さらにはイエスご自身がもう一つの問題になったりしました。
幸いなことに、その状態は長く続きませんでした。イエスが再び前面に現れ、話し出し、私に尋ねました。「ではあなたにとって、私はどのような存在ですか?」。
私にとって、これまでにないほど明確になってきたことは、イエスとの個人的な関係が私の存在の核であるということです。伝えたいのはイエスのことです。何にも増して、あなたにそれを書きたい。そして、私はそれを親密な仕方で行いたいと思います。
著者:ヘンリ・J . M . ナウエン( 1932 ‐ 1996 )
カトリック司祭。世界的に認められたキリスト教霊性についての著作家。著書『イエスの御名で』『静まりから生まれるもの』『明日への道』『放蕩息子の帰郷』(他多数)。
訳者:小渕春夫(おぶち・はるお)出版社あめんどう代表。編集者。訳書・ナウエン著『愛されている者の生活』『嘆きは踊りに変わる』他。
とりあえず、ひとつは完成。 でも、これは家ようですね。ツメが甘い し胴体にも接着芯を張らなければ売り物にはならないや・・。 一日に 一個がやっとじゃ効率が悪すぎかも。 トイレットペーパーを入れて使 え...
とりあえず、型紙も取ったし作り方は覚えたので、次回からは一日に二個くらいはいけるかも?合計5−6個できればいいか。後はポケットティッシュカバーをがんがん縫い、帽子とエコバッグ、ランチョンマット&マイ箸セットを何点かってな算段。
(5)光視症
目の中で閃光を感ずるもので,視野の一部にキラキラしたものが見えたりします。網膜剥離などでも起こりますが,片頭痛を伴う場合は脳の血管が一時的にけいれんして起こる閃輝暗点というものです。若い人に多く,症状は数分から数十分で消えますが,その後片頭痛,悪心,嘔吐が起こってきます。脳の血管の病気が原因となっていることもありますが,特に異常のないこともあります。この場合,過労や睡眠不足などによるとされています。また,頭をゴツンとぶつけたときなどに「目から火花が出た」などといい,実際,パッと目の前が明るくなったような感じがします。これも光視症のひとつでしょう。これは,衝撃が網膜の視細胞を刺激し,光として感じてしまうために起こるのです。
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「まなざし」「心が温まったら」が福音書のイエス様を味わう為のよい導入になる。そして「共に過ぎ越される」が胸の奥深くから響いてくる・・というか、静かに波紋を描いて(描かれて)いく様。
音は無い。波紋のビジュアルの余韻とイエス様を重ねる。
毎週月曜〜木曜 ごご3:48〜 :毎週金曜 ごご3:50〜
▼あらすじ
2003年9月から2004年3月まで韓国で放送され、アジア中で大ヒットとなった超人気歴史ドラマ。厳しい身分制度の時代に不幸な家庭環境に生まれた主人公チャングム(長今)が、シリーズ前半は宮廷料理人として、後半は女医として活躍し、「大長今(偉大なるチャングム)」の称号をもらうまでの波乱の半生を娯楽性豊かに描いた作品。チャングムは歴史書に登場するがその実像は謎に包まれている。
まだ食欲が無いので、お子様ランチ風に・・
お腹が張って痛いというので、ぷろびおてぃくすヨーグルトも。
って、アタシも甘いね・汗
しかし、身体馴らしで買い物へでかけるくらいの運動でもへろへろ。こんな調子で、母は来週からまた仕事なんだが・・。大丈夫だろうか。
しかし、注意しよう。主の愛が、分割されたり、分配されたり、加減されたり、ということは、ない。主は、この人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。さらに主は、あの人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。主の愛は、その意味で、単一である。
しかも、この単一の愛は、単調な愛ではなく、各人に各様に表現される、多彩なものなのだ。
このエントリー(温泉問答)全体がとても面白いのですが、ここに引用させて頂いた箇所が、主にあってとにかく素晴らしいです!
本当に、注意しなくてはいけません。そしてもう一度、今も歴然と注がれている圧倒的な主の愛を噛み締めましょう。
主があたえてくださった経済なら貧しくていい。与えられた分相応でいこう。世的に素敵なキャンプという現像?現像?に必要以上にソソラレルな。祈ろう。超える時は主が教え導いて下さる。ごり押しじゃなくてさ、平安のうちに信じてる。感謝。
★はい、私は牧師夫人
《リア・マラシガン・ダーウィン 山下章子訳》(2009/08/10発売予定)
牧師を陰で支える牧師夫人につきまとう「スーパーウーマン」というイメージ。牧師夫人ならではの困難と悩みに真正面から取り組み、神様からのこの特別な召しの意味を考える。夫である牧師はもちろん、教会員も必読の書。
【B6判/208頁/定価1575円】[いのちのことば社]
これではご主人お気の毒!?
―夫を救いに導きたい女性への11のチャレンジ―
《古林三樹也》(2009/08/10発売予定)
差別と抑圧からの解放を強調するあまり、女性本来のあるべき姿が見失われていないか?伝道するな!教えるな!歩調を合わせよ!夫を信仰から遠ざけている間違った態度をズバリ指摘しながら提案する、耳の痛い11のアドバイス。
【B6判/256頁/定価1890円】[いのちのことば社]
「そんな選択などどうでもよい」という言葉の真意は説明するまでもないでしょう。選択は大事です。しかし、それを包み込むさらに大きな視野、神の世界があるということなのです。・・・・来住神父
"それゆえに私たちは、もはや互いをさばかないようにしようではないか。むしろあなたがたは、兄弟に対して妨げになるものや躓きを置かないようにするという、そのことを決心しなさい。"
主イエスにあって私は、〔次のことを〕知り、そして固く信じている。すなわち、それ自身のゆえに穢れているものは何もない――何かが穢れていると考える者、その者にとってはそれは穢れている。
実際、もしも食物のゆえにあなたの兄弟が心痛を抱くとするなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいるのではない。あなたの食物によって、その人を、滅ぼしてはならない。その彼のためにキリストは死んで下さったのである。
それゆえに、あなたがたの善きことが謗られることのないようにしなさい。
なぜならば、神の王国は食べることや飲むことではなく、むしろ義、そして平和、そして聖霊における喜びだからである。
このことにおいてキリストに隷従する者は、神に喜ばれる者であり、また人々の信頼に値する者なのである。
したがってそれゆえに、私たちは平和〔をもたらす〕ことがらや、互いのために建てること〔をもたらす〕ことがらを、追求しようではないか。
(岩波訳:ローマ 14.1-23:)
あなたの平和の穏やかさで、わたしのうちにある派手さをしずめてください。 あなたへの厚い信頼によって、わたしのうちの不安を落ち着かせてください。 あなたの赦しを得た喜びで、私のうちの罪の傷をいやしてください。 あなたの現存をとらえることによって、私のうちの希望を確かなものとしてください。 滝のように降り注ぐあなたの愛によって、私のうちに愛を満たしてください。 聖霊、私にとって、あなたは、光、力、勇気の泉であることを知っています。 あなたの呼びかけを、もっとはっきりと聴き、 広い心で、あなたに従って行くことが出来ますように。 アーメン。 ――ウイリアム・ブラウニング |
(seseragi祈りの風景 212 2009/5/15より) |
料理 | Diaryのcommentsより:
"「私って、聖書に出てくる女性では誰に一番似てると思う?」と
聞いたら「士師記に出てくる、シセラを殺したヤエル」という答え。
私は、武将のこめかみに鉄のくいを打ち込んで殺したりしません!!!!
| りんご | 2009/06/21 2:47 PM |"
After the people saw Jesus feed the crowd, they began to say: “Surely this is the prophet who is to come into the world.” Jesus, realizing that they were about to come and take him by force to make him king, withdrew to the hills again, alone."
"人々は、イエスが群衆に食べ物をお与えになったのをみて言った。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である。」イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。"
ヨハネ 6:1-15
最上のわざこの世の最上のわざは何?
Hermann Heuvers
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。
能の『復活のキリスト』ってホイヴェルス神父がお作りになったんですね!
ヴィオロンさんのブログ「東洋からの風Ⅱ」の記事をご紹介する。特に、ヴィオロンさんの以下の言葉を、深く心に留めたいと思う。
<以下引用>
目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う(何しろ、神は愛だからだ)
私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。
今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しない、と。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。
<以上引用>
山谷のコメント
私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。
この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。
それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。
もちろん、そういうシステムが、この「中間の時」には必要とされているけれども、本然のエクレシアの「本質」は、そういうことどもの中には、ない。「本質」は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。
ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を「合一」のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。
なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から「一」であり、また、永遠に「一」なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。
というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。
うぅーん!これいいですねー!
また後でゆっくり読もうっと!
聖書
「主は御自分の民を決しておろそかになさらず 御自分の嗣業を見捨てることはなさいません」
(詩94:14)
「神は…御自分の民を退けたりなさいませんでした」
(ロマ11:2)
仕事や勉強やお金をおろそかにしないことは、だれもが努めていることと思います。神様は、もっと大切なものをおそろかにしません。それは私たちです。あなたも神様の宝の民なのです。
今日も、主に心をとめていただいていることを感謝して、聖書の御言葉をおそろかにしないですごせますように。佐々木栄悦
今日のロズンゲン:慰められましたーーーー(;。;)
「私はあなたの他に誰を天に持ちえましょう。 地にはあなたのほかに慕うものはありません」(詩篇73:25)
主を信頼することであり 主を愛すること
神はあらゆるものを価値あるものとして受け入れてくださいます。私のすべては、人々にとっても神にとっても、とるに足らないつまらないものだと思う時でさえも、神は私のすべてを利用して、私の悲しみ、痛み、失敗、挫折、また、私の喜び、実りなど、私のすべてを世界の人々の救いのために役立たせてくださいます。ですから、自分の仕事や奉仕、生活のすべてを、神にささげる生活が勧められているのです。(「きょうをささげる」とは):きょうをささげるより
友情の根源は、信頼だと思います。信頼があればあるほど、その友情も深まり純粋なものとなります。相手が男であっても女であっても、この話をすれば、分かっていただけるでしょう。絶対に裏切られることはないという信頼こそ、友情なのです。私のことを、あるいは、むしろ私自身を思ってくれるのは、それは友情のある友人なのです。 友人は異性であれ同性であれ、神の似姿です。(’09年7月-4.信頼と友情)
しかし、兄弟たち。こうした状況にある一個の父親を責めるのは簡単だが、そうした父としての感情を、私たちはどこまで思いやることができるだろうか? さらに云い足せば、自分が一度も味わったことがないような経験をしている人に対しては、審きを下すよりは、同情を寄せる方がずっと賢明であろう。ことによると、私たちも同じ立場に置かれたとしたら、ダビデと同じ感情がこみあげてくる以外ないかもしれない。この現在の瞬間にも、他に非常に重要な仕事をかかえていながら、今は同じことしか考えられずにいる人がどれだけたくさんいるだろうか?
ここ1−2ヶ月はLaudateの「聖書を読もう」を読んでいる。聖書通読自体はいろいろな形で何年が続けているので、そろそろじっくり読みたい思いがつのっていた。とはいえ、あまり自分の気の向くままに日々読むのもどうかと思い、カトリックの歴史ある読み進め方に倣ってみてもいいな・・と思ったのだ。
月曜日の箇所は、サムエル記下 18.6~17、24~19.5
http://www.pauline.or.jp/bible/bible_od_ord16mon.php
読みながら、以前感銘を受けたスポルジョンのこの説教を思い出し、検索してみた。
ダビデの様子は、読む年代によってずいぶんと違う印象を与えて来た。この箇所ではもっとも顕著だったのではないかと思う。
娘を置いて仕事に出かけ出しているが、夏休みなので就労中の手配を含めいろいろと心煩う。
今朝は歴代誌上22.5~19なのだけれど、アブシャロムの死になりふり構わなかったダビデの姿に、まだ心が向けられている。
素晴らしい王であったダビデの、愚かな父の姿として語られることの多い箇所だが、「愚か」だけで片付けられない思いを与えられている。
神が愛されたダビデ。その生涯をゆっくり思い巡らせよう。
Taize- みことばの黙想: "パウロは記す。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
(フィリ 3:4-14)"
今日のことば 日常生活において、あるいは神とのかかわりにおいて、現在先の見えない闇の中におかれている人よ。静寂を保ちなさい。闇の中で口を開くのは間違っている。闇は、耳を傾けるための時間なのだ。
(オズワルド・チェンバース)
懐が深いやねぇ。
神を求める気持ちが消え、味気なく、圧迫されているように思えたり、霊的な活動ができないと思えるときにも、うろたえてはならない。そんな気持ちになるもの恩恵であり、よいことなのだ。……私たちが目の見えない人を案内するように、神はあなたの手を引いて闇の中を導いてくださる。見たこともない道を通って、どんな想像も及ばないすばらしい目的地へと。自分一人では、決してこの道を見いだすことはできないし、その目的地にたどり着くこともできない。
(十字架の聖ヨハネ)
を・・、これは三年前の私だったら狂喜乱舞といったところでしょうか(笑
結局、挫折しておったわけですが、Creed辺りからまたボチボチやりますかね。
リアルオーディオで聞けます。
カーソル、ポンで英訳も出て来ますね。
バベットの晩餐会(原題:Babettes gæstebud、英題:Babette's Feast)は、1987年に公開されたデンマーク映画
アイザック・ディネーセンの同名小説の映画化で、同年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞。
あらすじ
時代は19世紀、重苦しい雲と海を背景にしたユトランドの片田舎が舞台である。マーチーネとフィリパは美しい姉妹だったが、牧師である父に仕える道を選び、清廉な人生を過ごしながら年老いていた。やがて姉妹のもとにフランスから亡命してきた女性バベットが転がり込み、家政婦として働くようになる。牧師の死後、村人の信仰心が衰えを見せていたため、姉妹は父の生誕100年を記念したささやかな晩餐会を催して村人を招待することを思いつくが、バベットは姉妹に対して晩餐の企画を一任して欲しいと願い出た。実はバベットには様々な秘密があったのだ。Check out this website I found at ja.wikipedia.org
「そんな選択などどうでもよい」という言葉の真意は説明するまでもないでしょう。選択は大事です。しかし、それを包み込むさらに大きな視野、神の世界があるということなのです。・・・・来住神父
祈りの学校校長・来住英俊神父の「目からウロコ」シリーズの第6弾。
教会共同体における人間関係の対処、つまり、ともに善を行おうとする人同士としての関係をどうしていくべきかを「識別ろ選択」という視点から考える一冊。
もくじ
はじめに
第1章 キリスト者の疲れ
1.キリスト者同士の人間関係
2.「愛」だけでは疲弊する
3.識別と選択
4.教会の疲弊
第2章 自分が選択する
1.「識別」と「選択」
2.選択すると、実行できる
3.決断して実行してこそ、間違いもわかる
4.キリスト者の旅路と祈り
第3章 識別のために考えておくべきこと
1.「神の国」という視野に立つ
2.「神の国」は動いている現実である
3.理想か現実か、ではない
4.自分の内面だけにこだわってはならない
5.「神の業」という言葉
6.独創性
第4章 霊の働きの識別(理論)
1.発想の転換
2.霊とは「他者」である
3.悪霊はいるのか?
4.悪霊は策略を持っている
5.自分の弱点と悪霊
6.悪霊なら仮借なく戦える
7.うわさ、批評
8.会議での発言
第5章 霊の動きの識別(実践)
1.霊の動きを識別する
2.霊動識別の対象
3.感情の味わい
4.悪い霊が自分を動かしている場合
5.善い霊が自分を動かしている場合
6.どいらでもない場合
7.感覚を訓練する
8.過去の経験
9.日々の練習(事後の識別)
10.やってみよう
第6章 神のあわれみ
1.「神の国」において
2.間違っているかもしれない
著者紹介
著者:
来住英俊(きし ひでとし)
御受難修道会司祭
1951年 滋賀県近江八幡市生まれ。神戸育ち。
1975年 電気メーカーに就職した。
1979年 イタリア旅行に参加し、その影響で帰国後、板橋教会を訪れる。
1981年 洗礼を受け、御受難修道会に入会。
1984年 初誓願。
1989年 司祭叙階。
説教や黙想指導の使徒職にたずさわる。
1996年〜97年 イタリアに滞在。そこであるイギリスの会員の言葉“lascuola di preghiera ”つまり「祈りの学校」をヒントとして、信徒と、修道者のための祈りの基礎訓練をする学校「祈りの学校」を、御受難修道会で開く。
著書:
『目からウロコ とりなしのいのり』、『目からウロコ ゆるしの秘跡』『目からウロコ ロザリオの祈り再入門』(女子パウロ会)via shop-pauline.jp
ナウエンの「心の奥の愛の声」を訳された小野寺健氏って、パールバックの「大地」を訳された方なのですね。フォースターとかブルックナーも多く訳されています。ちょっとこの辺りのリストを拝見しましたが晶文社の何冊か等も過去に読んだことがありそう。
そして、女子パウロ会の編集の方は、小野寺氏の訳された「群衆のなかで、さよならと手をふる人」(クリストファー・ド・ヴィンク)を読んで翻訳を依頼なさったのだとのこと。
小野寺氏は特にキリスト教やカトリシズムの専門的知識は無かったそう(感心はあった様子)。
相手をえらばずに自分の人生を語ってはいけない。けっきょく、なおさら冷たくされたという気持ちを味わうだけになるからだ。こちらがひそかにもともているものを、他人があたえてくれることはありえない。自分が何かを棄てた経験に同情を期待すればするほど、なおさら嘲笑された気持ちを味わうことになるだろう。
外の世界に対して自分を閉ざしてこそ、自らの苦しみを契機に自らの心と神の心に入ることができるのだ。神は、私たちが苦しみを分かち合えて愛の真の源へいざなってくれる人びとを、あたえてくださるだろう。
神はご自身の約束をお守りになる。私たちは死ぬまえに、自分が望みどおり神にみとめられ、愛されていることを知る。それは意外な形でやってくるはずだ。こちらの必要や願望に合わせてやってきはしないだろう。だが、私たちの心を満たし、もっとも深い願望をかなえてくれるだろう。この約束以外に、すがるべきものはない。それ以外のものはすべて奪われたとしても、信仰にひそむこの素朴な約束にすがるのだ。信仰が癒してくれることだろう。(「心の奥の愛の声」ヘンリ・ナウエン より)
心の奥の愛の声・ヘンリ・ナウエン/女子パウロ会(ちらっと読んだが、もう既に・・泣きそうである)
急がない!ひとりの時間を持ちなさい・・デイビット・クンツ(これ、一円だったのだが、とても奇麗に包装して下さり感謝)
この二冊をゆっくり読むつもり。
memo:今日は相棒と、デイキャンプのちらしを児童館へ置いてもらえないかお願いしに行って来た。2館が快諾して頂け感謝。他にも共に祈る時間が与えられて感謝。