2009-07-23

memo:夕べから思わせられている事

昨日、少佐のblog記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」を読み、引用先の山暮らしのキリストblog記事「主に私の愛を献げること」と(この記事を書きながら、来訪すると目についたので)「愛は分割されてはならない」も読む。

主に自分の持てる愛を100%捧げる事については非常に気になり、夕べも一度起きて黙想してみた(その後、「小さな道」を読みつつ、今まで自分が読んで来たテレーズの書籍にあったことも含め思い出しながら黙想)。

私みたいなものでさえ、主を愛しているかと問われれば「はい(もちろん)」と答えるだろう。

しかし、しかしだ・・。 自己満足で無く、真実、愛を捧げきるとは・・・? また、「100%捧げきり、何も残らない」という状態を想像すればするほどわからなくなってきた。また、この想像は愚かかもしれないとも黙想の途中で何度か思わせられた。 申命記6:4が駆け巡る。 イスラエル人はこの御言葉を反芻したはずだ、現在だって額に小さな箱に入った律法を身につけているくらいだが・・・・。

いったいどうやれば(この事が、真に主の望まれるように、また、主に喜ばれるように)出来るのだろうか? もちろん、これらのことを黙想するのは初めてではない。 今までもいろいろな形で迫られ、突きつけられて来た事だと思う。 単純に解決を見いだせないと、かえって複雑化して、主に信頼しない結果を招いていたのかもしれない。



「私はあなたの他に誰を天に持ちえましょう。 地にはあなたのほかに慕うものはありません」(詩篇73:25)



結局 決心し、祈り、信じるしか無いのだと思わせられる。



主を信頼することであり 主を愛すること




神はあらゆるものを価値あるものとして受け入れてくださいます。私のすべては、人々にとっても神にとっても、とるに足らないつまらないものだと思う時でさえも、神は私のすべてを利用して、私の悲しみ、痛み、失敗、挫折、また、私の喜び、実りなど、私のすべてを世界の人々の救いのために役立たせてくださいます。ですから、自分の仕事や奉仕、生活のすべてを、神にささげる生活が勧められているのです。(「きょうをささげる」とは)

友情の根源は、信頼だと思います。信頼があればあるほど、その友情も深まり純粋なものとなります。相手が男であっても女であっても、この話をすれば、分かっていただけるでしょう。絶対に裏切られることはないという信頼こそ、友情なのです。私のことを、あるいは、むしろ私自身を思ってくれるのは、それは友情のある友人なのです。  友人は異性であれ同性であれ、神の似姿です。(’09年7月-4.信頼と友情)
:きょうをささげるより