2009-07-22

An Anxious Enquiry for a Beloved Son

しかし、兄弟たち。こうした状況にある一個の父親を責めるのは簡単だが、そうした父としての感情を、私たちはどこまで思いやることができるだろうか? さらに云い足せば、自分が一度も味わったことがないような経験をしている人に対しては、審きを下すよりは、同情を寄せる方がずっと賢明であろう。ことによると、私たちも同じ立場に置かれたとしたら、ダビデと同じ感情がこみあげてくる以外ないかもしれない。この現在の瞬間にも、他に非常に重要な仕事をかかえていながら、今は同じことしか考えられずにいる人がどれだけたくさんいるだろうか? 

ここ1−2ヶ月はLaudateの「聖書を読もう」を読んでいる。聖書通読自体はいろいろな形で何年が続けているので、そろそろじっくり読みたい思いがつのっていた。とはいえ、あまり自分の気の向くままに日々読むのもどうかと思い、カトリックの歴史ある読み進め方に倣ってみてもいいな・・と思ったのだ。
月曜日の箇所は、サムエル記下 18.6~17、24~19.5
http://www.pauline.or.jp/bible/bible_od_ord16mon.php
読みながら、以前感銘を受けたスポルジョンのこの説教を思い出し、検索してみた。

ダビデの様子は、読む年代によってずいぶんと違う印象を与えて来た。この箇所ではもっとも顕著だったのではないかと思う。

娘を置いて仕事に出かけ出しているが、夏休みなので就労中の手配を含めいろいろと心煩う。

今朝は歴代誌上22.5~19なのだけれど、アブシャロムの死になりふり構わなかったダビデの姿に、まだ心が向けられている。
素晴らしい王であったダビデの、愚かな父の姿として語られることの多い箇所だが、「愚か」だけで片付けられない思いを与えられている。

神が愛されたダビデ。その生涯をゆっくり思い巡らせよう。

Posted via web from psalm42's posterous