2009-07-24

MEMO: 山谷少佐BLOG/続・目カラ片鱗ノ剥落スル事

ヴィオロンさんのブログ「東洋からの風Ⅱ」の記事をご紹介する。

「自分発の愛から神発の愛へ」

特に、ヴィオロンさんの以下の言葉を、深く心に留めたいと思う。

<以下引用>

目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う(何しろ、神は愛だからだ)

私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。

「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しない、と。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

<以上引用>

山谷のコメント

私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。

この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。

それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。

もちろん、そういうシステムが、この「中間の時」には必要とされているけれども、本然のエクレシアの「本質」は、そういうことどもの中には、ない。「本質」は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。

ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を「合一」のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。

なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から「一」であり、また、永遠に「一」なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。

というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。

うぅーん!これいいですねー!
また後でゆっくり読もうっと!

Posted via web from psalm42's posterous