2008-03-30

「主を喜ぶ力」

今朝は電車で礼拝に向かう途中で、「品格」ということを思わせられていた。
ある信仰の先達に「品格とは大きくぶれないこと」と解釈し教えて頂いたことがあり、それをある姉妹にお分かちしたら「主に繋がって」そうであることをつり革の例をもってわかりやすく話して下さった。
そして、ある程度の「ぶれ」は許容範囲というより、それは実はかえって(その中で主が想像を超えて豊かに働かれ)恵みに繋がることが多い・・というような気づきを与えられたのを思い出し、反芻させて頂く(もの凄く感謝)。
そのお話の時「そういえば、ヨセフやダニエルって品格を感じますね」とも頷きあったのだが、今朝は「そういえば、ネヘミヤはまさにそうだなぁ」としみじみと思わされ、思い巡らせていたら・・・(って、前置きが長いよぉー!相変わらずぅ・苦笑)

なんと、説教はネヘミヤ記8章1-12節からであった・・!
主を喜ぶことは、あなたがたの力である
For the joy of the Lord is your strength!

アーメンです。涙。コレは、最近、本当に思わせられていたのだ・・・。
このことを傲慢にならないで、ある方に伝えるために知恵を頂きたいと祈っていたしねぇ・・(そろそろ個人の通読がヨブ記なので、そこでも神様が語られると期待している)。

今回開かれた箇所はどこをとっても、個人的な語りかけがあり、圧倒的な主のご臨在に目眩がしそうだった。
いろいろあるのだけれど、そのうちの一つだけ。
今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

イスラエルの民は、このとき何故、泣いていたのだろうか?
それは、読まれている律法の書となんと自分たちはかけ離れているのか・・という胸を掻きむしられるようなショックな思い・大きな悔い、であったろう。
けれども、その民に主はネヘミヤを通してこうおっしゃるのだ。
「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

なんという慈しみだろう。ああ、主は、なんという・・(もう言葉で表せない)お方だろう。
こんなに大きな愛を注がれているのを豊かなご臨在とともに教えられて、呆然とするばかりだった。
私は主に何が出来るだろう(喜びのあまり、嬉しさのあまり何かさせて頂きたいのに・・・)

私たちの力を喜ばれる主。
悲しむなとおっしゃる主。
その主は、よみがえり、なんと今、この私のうちにおられるのです。

He lives, He lives, Salvation to impart. You ask me how I know He lives? He lives within my heart.



今朝の個人的な通読箇所:Matthew 24:1-31; Numbers 25-27; Song of Solomon 6:4-8:4
・ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
・わがはと、わが全き者はただひとり、彼女は母のひとり子、彼女を産んだ者の最愛の者だ。おとめたちは彼女を見て、さいわいな者ととなえ、王妃たち、そばめたちもまた、彼女を見て、ほめた。
・男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。モーセがその事を主の前に述べると、主はモーセに言われた、「ゼロペハデの娘たちの言うことは正しい。

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