2009-01-22

今週はこんなことを心にとめながら祈ってみましょう:祈りの場から

1月18日〜24日:「祈りの場」から

 
私のいとこのモイラがアルツハイマー病にかかった時、彼女は自分自身をコントロールすることが全くできなくなり、介護と看護が休みなく必要でした。あなたが彼女を訪ねると、あなたにきっと微笑みかけ、つかのまの認識をもつでしょう。その段階でも「さようなら」と、あなたは言うことができないでしょう。それは、ゆっくりとした別れです。彼女が亡くなった時、人々を愛した彼女は、人間とはかなりかけ離れていました。神は、それまで何をされたのか、私には疑問でした。

 私は、自分たち自身を聖なるものとすることが、私たちの仕事であると想像したものでした。私たちの手本とは、苦行と祈りと他の人たちに向けた寛大さの並外れた水準を成し遂げたように見える人たちでした。私たちは、最も明らかな滅私の努力の中にあってでさえも、自分自身の満足、そして充足感をしばしば追い求めています。私たちではなく、神が私たちを形作ります。人生を通して、私たちが決して計画しなかった方法で、神は私たちのエゴを取り去り、神自身のために、私たちを整えられます。行動的な人にとって、最も困難な苦行は、行動できなくなることです。高度な力と活力のあるイエスにとって、十字架は、釘付けされ、無言で助けのないことを意味しました。私たちは、自分たち自身のためにこれらの体験を計画することもできないし、しないでしょう。イエスは、彼から手渡すために聖杯を求めました。

 だれが途を進むために、アルツハイマー病になることを、求めるでしょうか?もし、私たちが神の御摂理を信じるとしたら、そしてそれは容易ではありませんが、愛と熱心な人生を神に捧げたモイラのために、神がなされたことに違いありません。モイラの人生の真に成し遂げたものとは、彼女の前向きの努力や他の人々のために夜も寝ずに奉仕したことの中にあるのではなく、彼女と共に墓場に向う苦しみの中で、神の手の存在を認識する中にこそあるのです。(ボールドは鹿子による)

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