2009-01-20

友よ、我なんぢに不正をなさず

通読箇所:創世記21,ネヘ10、マタイ20,使途20
主人こたへて其の一人に言ふ「友よ、我なんぢに不正をなさず、汝は我と一デナリの約束をせしにあらずや。 己が物を取りて往け、この後の者に汝とひとしく與ふるは、我が意なり。わが物を我が意のままにするは可からずや、我よきが故に汝の目あしきか」(マタイによる福音書 20章 13-15節/文語訳)


受けるよりも与える方が幸い。
宮をなおざりにしない。
変えられたサラの笑い 。


memo
最近は、テゼの黙祷のみことばか、ローズンゲン(その日の分だけの場合はローズングといった方がいいのかな)を思い巡らせながら、ただ主の前に静まることにしている。
それもみことばの意味をさぐるとか自分にはどういう意味があるのかを中心にするのではなくて、主ご自信や主の愛をダイレクトに受けるようなイメージを大切にして、それに包まれるように集中していく・・。
ご臨在を溢れるほど感じるためには、集中が必要だとあらためて思う。
自然と入っていけるときもあるけれど、そうでないときの方が圧倒的に多い。これはアビラのテレジアとか、スンダル・シングも詳しく書いていることだったと思い出す。
確かに、主の愛を感じてそれに浸ってしまえるときは周りは気にならないけれど、その状態に入っていくことは普通になかなかできることではない(突然やってくるときは別/そういう場合はギフトなんだよね)。
基本的にはこうして自分の中に溢れさせて下さったものを、置かれている場でただ流させて頂くだけなんだな・・と思う。
まぁ、教会の営みというものもああるけれど、それもそこに向かう基本は一緒なんじゃないかな。

ベッドで目が覚めてから、ずっとこのことを思いめぐらせている。

聖書通読はその後。


「友よ」とは、なんと感動的な呼びかけだろう。
文語訳(あ、口語訳も?新共同も!)のこういうところ、大切にしたい。

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