2008-08-01

1 Corinthians 16; 2 Kings 12-13; Micah 3:アブラハムのことを通しての励まし

目を覚し、堅く信仰に立ち、雄々しく、かつ剛かれ。
一切のこと愛をもて行へ。
コリント前書16:14文語


CSの関係でこのところずっとアブラハムの事を調べているというか、まぁ、2-3の教案誌に書かれている事を読んでいるだけなのだけれど、いろいろ気づきを与えられて感謝。
特に、夕べはとても励まされた。
昨日は、朝の通読で落ち込みモード(いつもだが・・汗)。自己憐憫に陥らない様にするので精一杯だったけれど、日中もなんというか、情けない状態だった。
しかし、そろそろ案を練らねばならず、娘が寝た後、読む読む。
案に関しては作りやすい箇所でもあり自分の中では大体は出来ていて、後は語る者の霊が整えられるというか、主との生きた関係を語りの中で見てもらいたいという感じ(って書くとすごいね/汗)。

それにはやはり主のお取り扱いを受ける必要があるんだなぁ。

今回励まされたのは、簡単に言うとアブラハムは、最初から「信仰の父」という信仰の鉄人のようなキャラクターではなかったということだ。

まず、主からの語りかけをうけ旅立つ(でも、ここだけでも十分「凄い」けれどねぇ)。
ウルから出て、約束の地ではないハランに住み着いちゃうけれども、主はその後、約束の地へ導かれる。
ネゲブのあたりにいるとき、飢饉があったので自分の考えで食物が沢山ありそうなエジプトに下る。そしてサラに「妹だといってくれ」ととんでもないことを頼む。しかもこの失敗は二度繰り返される。
そしてカナンに入ってからも、なかなか子が与えられなくて、ハガルによってイシュマエルを・・。このことは後に子孫の間でも多くの問題を引き起こす事になる。

ざっと振り返ってみるだけでもアブラハムだって、こんなに弱いし間違った選択もしたのだ。

以前は特にエジプトでのサラへの嘆願(しかも二度も繰り返すし)なんて「なんて酷いの?とんでもない!」と思うばかりだったけれど、今回アブラハムの弱さが、手に取る様に分かると言うか、非常に共感させられた。そして、それゆえ、主の励ましが、また、約束を遂行される真実なお方である事、不信仰者の良い面を忘れないお方であること等が身にしみることになる。

それぞれの箇所で、主はアブラハムを励まして下さり、そして、モリヤの山であの有名なイサクのことがある。イサクの件は、そこだけ抜き取ると、なんとも理解しがたい思いがわくのは人情だろうが、神とアブラハムとの関係には、こういう深い歴史があるのだ。

主の約束を笑ったサラも、アブラハムからああいった扱いを受けていた夫婦としての歴史もあるけれど、それでもあるときから改心したのだろう、後には夫に主のように従ったとヘブル書にはある。
イサクのときはもちろん、ロトとの争いの時にも良い地を譲り、ソドムとゴモラの町が滅ぼされようとしているときはとりなし、・・とアブラハムが信仰者として主によって成長させらているというところも見ているからでもあるだろう。

そして、アブラハムには地上での生涯の間にカナンの土地が与えられたわけではない。
でも彼は仰ぎ見たのだ。
(そうなのだ「献金したからすぐに恵まれる」とか、「こうしたから祝福がある」とか、そういう次元のことではないのだ)

主は、彼の弱さや不信仰もご覧になったけれど、そうでないところもお忘れにならなかった。そして、ご自分の契約を歴然と守られたのである。

アタシは弱い。小さい。いつまでも不出来だ・・。
でも、どんなことがあっても、この神を主を離れないでいこう。
間違いの刈り取りは確かにあるけれど、それも哀れみ深い主がともなってくださるのだ。
そして、主ご自身が絶対に離れず捨てないとおっしゃっている。

CSの働きでもそうだ。
現実に虚しい事はいろいろある。けれど御言葉は決して地に落ちる事は無い。虚しく帰ってくることはない。
主は確かにご覧になっている。

そうなんだ。だから心から主に向かおう。
私に出来る限りの真実を尽くそう。

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