2008-10-30

←覚えてる?この聖句:聖句暗唱ガジェット

(ネコ温度計の下のヤツです)
うーん、ちゃんと隠されていますなぁ。

Verse-a-Week Memorizationというのは週単位での聖句暗唱用ガジェット(iGoogleのは一週間かけて、徐々に聖句のことばが隠されてゆくというものだったのですが、こちらは全部隠されてしまうみたいですね.Show Verseをクリックすると聖句が見られます)なんですが、日本語で使っても大丈夫っぽいですね。


久々に風邪をひいて、参っております。
特に、娘(;。;)

これとは別にこの一ヶ月半くらい咳と痰が酷くて(私の)、それにも参っています。
明日は朗読のWS,土曜と日曜日は特伝なのに・・・と煩いつつ、聖句を思い出すアタシ。

2008-10-28

おかあさん、谷川鹿子なんでしょ?

ひぃえぇーーーーーーっ!なんで知ってるの?(とはいえ、別に隠していたわけではないのですが)

この漢字、読めるのか?と思っていろいろ思いめぐらせると、なんとなくどういった経緯で読めるようになったかは察しがつくような・・。

最近は「○○ってなんだっけ?」なんて独り言をつぶやくと「ぐーぐるでしらべたら?」なんて助言もしてくれるほど(もちろん、彼女自身はPCはほとんど使いません・・というか、まだ使わせていませんが)。

あまり人に言ってはダメだよと釘をさしたけれど、「あまり」なんてあいまいな概念は察することが出来ないだろうし、何かの折りには「あのね、うちのおかあさん、ぶろぐやってるんだよ。でね、○○っていうの」などと言ってしまうのであろうなぁ(大汗)。

まぁ、どなたに読んで頂いても構わない内容ではある(一応)と思うのですが・・。

うぅーん。
祈りつつ、そろそろ考え時ですかねぇ。

2008-10-27

ネコ温度計:ハロウィンバージョンなのね・・

ありゃ。
なんか、ゆうべから「あれ?オバケっぽのがうろちょろしてない?」「ほぇ?こんどはコウモリがぁー!」と思っていましたら、今月一杯はやっぱりハロウィン仕様だそうで・・。

クリスマスや、お正月にも「お楽しみ」があるそうです(って、さっきPCの時計を進めて見ちゃったんですけども・・hahaha/汗)

webクリップ♪:オランテ(Orante:祈る人)

「オランテの集い」というカトリックのサイトを見ていたら、
カタコンベの壁画に、手を広げて祈る女性の姿、「オランテ」(Orante)の画像を見ることができます。霊魂はほとんど常に女性として示されます。それは神の前における人間存在の特徴が、女性の姿で表現されるからです。キリスト教最古の祈りの姿勢は、両手を広げた「オランテの姿勢」です。両手を広げることは、暴力によらないことを表現し、平和の姿勢となります。人は両手を広げることによって、自分自身を他者に開きます。それは求めることと、希望することの姿勢でもあります。人は隠れた神をつかもうとし、神に向かって身を伸ばします。神を崇拝することと、隣人への愛はこの姿勢において合致しています。神への開き、つまり神に完全に自分を明け渡すことと、同時に隣人に向かうこととを、分けることはできません。キリストの十字架の姿に示される、これらの二つの方向性の融合は、キリスト教的祈りの新たな深みを、身体において見える形で指し示しており、そのようにして私たちの祈りの中心となる原理を表現しています。
            
とあった。進め方は以下のような感じ。
こころの準備 

まず、祈りに入る前の準備として、音楽と呼吸法を取り入れながら、
こころと体をゆっくり整えることから始めます。

「主イエス・キリスト わたしをあわれんでください・・・」

この短くて力強い祈りを繰り返し唱えながら、主に呼びかけ、
御父のふところのうちに、自分を徐々にゆだねていきます。
               
奉  献

一人ずつ祭壇に奉献の灯りを捧げます。
「わたしは世の光。わたしに従ってくる者は、
          やみのうちをあるくことなく、いのちの光をもつ。」
                          (ヨハネ8・12)
 

祈  り

それぞれが受け取った詩編の短編で、しばし祈ります。

思い返してみると、ひとりで祈るときは(手を伸ばしてとまでは行かないのですが)、胸の少し前くらい辺りまであげて、手のひらを上向きにしていることは多いように思います(バレーボールの様なモノをキャッチする感じのカタチ)。
祝祷の時のように上に上げるのは、私にはまだ抵抗があるんですね。

それとわたしは祭壇にはあまり馴染みはないのですが、キャンドルを使うのってやはりいいなと思いました。
1000000人のキャンドルナイトの影響からか、最近はクリスマス時期でなくとも素敵なキャンドルをディスプレイしたり扱うお店が増えているように思います。

以前は、特に信仰に関しては「形ではないから」と、ストイックにいろいろなものを排除していたかもしれません(その割に実はなっていませんし、変な拘りもありありでしたけど・大汗)。しかし、時を経て最近「受容したい」という思いが自然に湧くようになりました。今なら、こだわりなくそれらを受け取ることができるのかな・・とも思わせられています。
まぁ、そう簡単に折り合いがついたり上手くいかなくともいいのですけれども・・ね。

詩篇で祈るのもいいな。祈りもいろいろ紹介されています。

「オランテ」はラテン語で「祈り」という意味だそう。

2008-10-25

死の淵からの帰還:野村祐之 著


先のエントリーに関連して、野村先生がどういう状態の時に、あの祈りに導かれたのか・・がとても良くわかる書籍を紹介させて頂きます。
97年に岩波から出た本で、現在は品切れになっていますが「死の淵からの帰還」です。amazonマーケットプレイスには10点の中古があるようですね ¥ 757より〔価格や数は変わると思いますので、上記リンクを参照下さい)BookOffなどにもあるのではないかと思います。
私は、感謝なことにサイン入り書籍を入手することができたのですが、(砂漠の知恵などでも野村先生の素晴らしい賜物を知ることができますが)素敵な毛筆ですよね〜。

人生半ばにして医者から先が長くないことを宣言された著者は,紆余曲折を経て米国で肝臓移植を受ける.自らの経験を通して,日本とアメリカの間に横たわる医療観や倫理観の違いなどを肌で感じ取るとともに,命の重みを実感.生命とは何かをめぐり,体験者ならではの深い思索を展開する.脳死や臓器移植問題等を考える上で不可欠の1冊〔岩波サイトの紹介文より



移植に限らず、大病や事故、災害に遭遇するというのは、突然、人生の床が抜け、おおきな穴に突き落とされるような体験である。
しかし、その深淵で僕が見たものは、虚無でも、暗黒でも、絶望でもなく、生きとし生けるすべての命がその深みにおいて支えられているような「命の根元」であった。その深みからの光に照り映えて命は輝き、日常のただ中でキラリとひかる。
そのときわれわれは、命の本質が長さやおおきさではなく、深さにあることを発見する。普段なにげなく見過ごしてしまうちいさな輝きにこそ奇跡がかくされていたことを知り、こころときめかせるのである。それに気づくとき、我が身に課せられた運命に対する、「なぜ私がこんなめに」という問いは、「よくそこの僕に」という喜びにとってかわられる。呪いと災いが祝福と幸いに転じるのである。
「幸」という象形文字は、古代中国で死刑囚にはめられた手枷のかたちなのだそうだ。「幸い」とは、死刑囚が命からがら助かったときに実感する気持ちのことであったという。
その意味でなら、僕自身、身をもって幸せを、味わわせてもらえたとえいよう。ほんものの幸せとは、自分の存在を根底からゆるがすような問題に真正面から取り組むときに経験する、生きる喜び、命の輝きの賛歌なのかもしれない。(「死の淵からの帰還」エピローグp220-221より)



本を枕にースピリチュアルな日々ー『死の淵からの帰還』という本を読んで
クレオパさんの感想と紹介(とても詳しくお書きになっています)是非、ご覧下さい。

クレオパさんもお書きになっていますが、内容はもちろん、野村先生のイキイキとした瑞々しい文章・文体が本当に素晴らしいんです〔ラジオでのお話しを聞いた後だと、先生が情熱的に語る声が聞こえてくるような感じがすると思います)。
岩波から出た書籍ですが、信仰について遠慮無く、しかもとても深くそして力強く書かれています。
クリスチャンの間でもっともっと読まれて&知られていても良い本だと思いました。

検索してみると家の近所の図書館には蔵書があったので、お近くの図書館をあたってみるのも良いかも知れません。

野村祐之先生の「みこころならば、みこころのままに」CD発売されてます!

また、FEBCblogからなのですが、昨年、放送された野村祐之先生の「みこころならばみこころのままに」が、CD発売されています
2008年8月29日(金)に再放送されていたのですね!
その頃は8/29のFEBCスタッフblogで聞けるようになっていたようです・・(注:今は聞けないようです!)
うううー、不覚でした。

この番組は昨年、拝聴してとても感動し、自分のblogでも紹介させて頂いたのですが、素晴らしいので、しつこくまたエントリー!


聞き逃していた方は、是非、是非、CDでどうぞ!!


CDの価格は、1500円です(9月までは発売記念特価だったんですねー!うーん、いくらだったんだろう?これまたぬかっておりました〜、ちょっとくやしひかも)。

朗読劇「塩狩峠」:FEBC Blog:より

FEBC Blogを見ていたら、明日、26日(日曜)一時半から新宿西教会(歌舞伎町2-19-11シャロームビル2F)で、西田正さんが演出される 朗読劇「塩狩峠」が上演されるとのこと。

クリスチャンの方は時間的に無理かも知れませんけれど・・。

西田正さんの一人芝居「ダミアン神父の生涯」(毎月・最終月曜日の夜7時から公演しています。場所は「池袋新生館シアター」)というのも是非一度、拝見したいと思っています。

明日は朝5時から「こころの時代・~宗教・人生「祈り 苦難をともに40年」に三浦光世さんが出られますし、楽しみですね^^

2008-10-24

まめですなぁ・・、のびた先生:web解析から

久々にweb解析なんぞを見ていたら、藤掛明先生の「おふぃす・ふじかけblog」経由で来訪して下さっている方が多いので驚く。

え?なぜ?と思ってお邪魔してみると、ありゃ・・「私のことを取り上げてくださったブログを、さらに紹介したい。ありがとうございます。」とのことで、10.22水曜日の日記の中で紹介頂いておりました(^^;

いや、その、こちらこそ、ありがとうございます。
励まされました。(でも、とても恥ずかしいので、ここで失礼させて頂ますね)

お忙しそうなのに、こんなblogのあんな記事の中の小さなつぶやきを見つけられるとは・・なんてまめな先生・・。きっとストローもお似合いに違いない。
でも、のびた君に似ているというお話しは意外でした。わたしはLLのお写真を拝見して筒井康隆さんに似ていらっしゃるなぁと思いましたが・・。

「ゲノムと聖書」フランシス・コリンズと「キリスト教は進化論と共存できるか?」フランシスコ J.アヤラ:超個人的な感想の一部とメモ(でも長文)

途中で読むのを休んだりしながら、ゆっくり読み進めました。他の方の感想等もwebにぼちぼち上がって来ていたようなのですが、自分の読後感をまっさらのままで味わいたくて(&「神様と私」の関係の中で個人的な語りかけも求めていたので)それらは読まないように気をつけていました。

で、率直な感想ですが「期待通り、非常に面白かった!!!!!!」です(笑)し、個人的な語りかけも頂けたかな。
私はプロテスタントのクリスチャンでいわゆる福音派(福音主義)の教会に所属しているのですが、信仰的にも、来春から公立の小学校へ娘を送り出す親としても、大きく励まされとてもすっきりさせて頂けたのです(非常に感謝)。

かつての自分を含め、一部の福音派のクリスチャンがあまりにも科学や科学者に対して敬意の無い失礼な姿勢であり言動をしているのも、とても申し訳なく、また哀しく思わせられました。

ゲノムと聖書 科学者、〈神〉について考える」が届く前に、「キリスト教は進化論と共存できるか?—ダーウィンと知的設計 :フランシスコ J.アヤラ」を読んだのですが、予備知識としてウィリアム・ペイリのことやダーウィンについて簡潔でわかりやすく書いてあったのでとても参考になり、同時に今まで進化論についても、IDについ(←これについては特に)ても自分できちんと調べたり本を読んでこなかったことをとても反省させられていました。
著者のアヤラ(カリフォルニア大学アーヴァイン校生物・生物学・生態学・進化生物教授、ヒトゲノムプロジェクト審議会顧問、全米アカデミー評議会員、2001年全米科学賞受賞)はカトリックだからなぁ〔ヨハネパウロ二世が進化論に好意的な発言をしている等のことは知っていたので)・・なんて色眼鏡気味で読み始めたことも大反省。

・・・幼児の頭が容易に通過するには、女性の産道がきわめて狭いことを考えてみよ。
それゆえ、何千何万という赤ん坊や多くの母親が、分娩の間に死ぬのである。この機能しない設計に、あるいはこどもたちの死について、神に責任を帰すことを、我々が望まないことは確かである。科学のおかげでそのことは理解できる。つまり、我々の脳が進化してきた結果なのである。他の霊長類のメスは、この障害を経験しない。過去の神学者は、機能障害との問題と戦った。なぜならばそのことを神の設計に帰さなければならない、と思ったからである。欠陥、形成不全および機能障害を自然的原因に帰する説明を、科学が納得いくように提供したことで、多くの神学者たちを安心させている。」(「キリスト教は進化論と共存できるか?—ダーウィンと知的設計 」より)

例えば上記引用のような箇所等から(個人的に先日から「不完全なままで召されていることここここを参照)」というのを何度も思わせられていたことも引き金になって)『進化って、プロセスを大切になさる神、そして自由意志を大切になさる神のご性質を表すモノではないかしら』と思わせられたり、「たとえ猿から進化して来たとしても、人として霊を与えられている人間がこうして存在していることは、聖書にまったく矛盾しないのではないか」と思わせられたりしていたんです。

「ゲノムと聖書 科学者、〈神〉について考える」では、さらに詳しく知ることが出来たのはもちろん、著者(フランシス・コリンズ/遺伝学者、医師。エール大学より物理化学博士号、ノースカロライナ大学より医学博士号を取得。全米科学アカデミー及び医学院会員,二〇〇七年にはアメリカで文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受賞)の信仰的なスタンスは自分と非常に近いものでもあり、大好きなC・Sルイスの著作の中で福音派のクリスチャンとしてどうしても?だったところ(たとえば、この書籍は実物は読んだことはないのですが「痛みの問題」の以下のような箇所・これ↓は「ゲノムと聖書」p204-5に引用してあった文章からの抜粋です)などが、本当にすっきりと理解できました。

神は千歳にわたり、人間の魂を宿し、神自身の似姿を反映するべき動物の形態を完成させた。神はその動物に、親指ともう一本の指でものをつまめる手、また発声を可能にするあごと歯と喉をお与えになった。そして、理性的思考を生み出すのに必要なあらゆる働きをつかさどる、複雑な仕組みの脳を備えられた。その動物は、人間になる前に、もう長い間そのような状態で存在していたかもしれない。もしかしたら、現代の考古学者が人間性の証拠として見なしている、いろいろな道具を作る能力をすでに兼ね備えていたかもしれない。しかし、その身体的、精神的過程の目的はすべて、純粋に物質的・本能的だったので、そsれはなおも動物に過ぎなかった。だが、時が満ちたとき、神はこの生き物に、心理学的にも生物学的にも新しい認知能力をお与えになったのである。すなわち「自己」を認識し、自らを客観視でき、神を知り、真理と美と善に関する判断ができ、時間をはるかに超越するがゆえに時の流れを知覚することのできる意識である。(「ゲノムと聖書」p204-5より)

この引用の後にコリンズはこう書いています。
信者が創世記一章と二章の解釈で妥協してしまうなら。滑りやすい坂道を転がり落ち、しまいには神の基本的な真理と奇跡的な行為まで否定してしまうのではないか?信仰の真理を骨抜きにするような、無制限の「自由主義的な」神学には明らかな危険があるだろう。しかし成熟した観察者は、滑りやすい坂道でも分別ある判断をし、どこで踏みとどまるべきかを知っている(「ゲノムと聖書」p205より)

決して私自身が成熟した観察者であるというのではありませんが、なるほど、と思わせられました。聖書を読んでいると、神が私たちに成長や成熟、大人になるようにと何度も勧めておられるのがわかりますが、ここを読んでそれ(らの聖句)を鮮やかに思わせらたのです。
神は私たちに成長して欲しいと思っておられる、祈りつつ自分で知識を得て選択して欲しいと思っておられる・・。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛することと繋がる気もしました。

有神論的進化論なんてものがあることすら、恥ずかしながら私は知りませんでした・・・。

頭ごなしに創世記は一字一句事実であり、それを信じなければ自分たちの信仰はなりたたないという福音派の一部にある強い風潮が、こういう知識に疎くしていたのだと思います(同時に伝道もしにくくしたり、求道者に混乱を招いたり)。
しかも結局はそれで自分で自分の頸を閉めてしまう・・、これは非常に怖いことです。
真理は私たちを自由にすると聖書にはあるのですが、これでは縛られ捕らわれている感じさえします。

先祖が猿であっても、創世記の解釈が字義的でなくても、偉大な神でえあるということに問題はなく、また聖書の権威もなんらおとしめられないのではないかという思いに導かれ、それは私を解放してくれました。
私の拙いメモや引用箇所だけではわかりにくく誤解も招きやすいと思いますので、興味を持たれた方は実際に書籍をお読み頂ければ・・、と思います。。

ダーウィンの『種の起源』が出版されるよりもはるか昔から、同じように誠実な信者たちが、聖書のすべての記事を字義通りに解釈することに対して異議を唱えてきたし、今日もそうであることを考慮してもいいのではないだろうか。宇宙のすべてを創造し、祈りや霊的な洞察を通して自分が創造した民と意思の疎通をはかる神が「わたしを愛するなら、科学が解明した自然界の明白な事実を無視しなさい」というとは到底思えない。(「ゲノムと聖書」p206より)


神への脅威のように見えるからと言って、自然界の理解を深め、人類の苦悩を軽減し、生活を向上させる科学の効用に背を向けるのか?あるいは逆に、科学が進歩した今、もはや霊的生活は不必要なのだから、祭壇には伝統的な宗教のシンボルの代わりに二重らせんを刻めばよい、といって信仰に背を向けるのか?
どちらの選択も、大変危険である。共に真理を否定しているからである。どちらも人類の崇高さをおとしめる。そして、どちらも不必要な選択である。聖書の神は、ゲノムを造った神でもある。神を礼拝することは、大聖堂でも研究所でも出来るのだ。神の創造は壮大で、畏敬に満ち、複雑で美しい。
真理同志が互いに争うことなど出来などできない。そのような戦いを始めたのは不完全な我々人間なのだ。そして、それを終結できるのも我々人間だけなのである。(「ゲノムと聖書」第10章バイオロゴス選択肢(4)科学と信仰ー本当に大切なことp206-207より・太字は鹿子による)



そして、個人的には特にナイジェリアへ医療ボランティアとして渡ったときのお話しが書かれている圧巻のp212-214←ここを読むためだけにこの書籍を買っても損は無いとすら私は思います!


ううぅーん、どうしよう、他にも書きたいことは沢山あるのですが・・。

やっぱり、アウグスチヌス(アウグスティヌスが正しい表記?)は読もう(訳が読みにくいそうですが)、それとCSルイスの著作で引用されていたモノは再読も含めて読みたいし(でもなかなか手に入らないものもあるんですよね)、グールドやドーキンスも!

そうそう!実は私の特技も「替え歌」です!(いつもプロフに書こうと思うのですが、恥ずかしくてやめていたんです・・でも、コリンズ博士と同じなんて嬉しくて嬉しくて、ついにカミングアウト!・・ってアタシの方のレベルはかなり低いと思いますが・汗)


追記
関係ないのですが、アヤラ(イタリア人)もコリンズもフランシスなんですねぇ。
アヤラはカトリックだから分かるんですが、コリンズの両親は無神論者(でもHSをしていたんですよ!)だったとのこと・・不思議だなぁ。

2008-10-23

今更ですが、苦難の中の忍耐って凄い証なんだよね。
朝の掃除で、ちあのニュースレター関係を整理していて、Sさんの分科会(白馬かな?)の短い紹介文を読む。
「子どもが信仰から離れる(た?)ときのこと」を話されるようだ(聞きたいですねぇー!)
Sさん(ご夫妻は牧師夫妻でもあり主にあって非常に素晴らしい方々です)にはお子さんが三人おられ、上のお二人が中高生くらいの年齢からいわゆるダブルスタンダードの苦しみ試みに会い信仰を離れていまった経験から、末のお子さんをHSなさっている。もう十年くらいでしょうか。
何年か前には、ご主人が倒れられ、奇跡的に回復したけれども一昨年前辺りだったか召された。
そのいろいろな局面をニュースレターやビデオで拝見させて頂いていたので、短い言葉の中でも感じるところは多かった。ロマ5章(4節から5節)の御言葉を出されていたけれど、まったくそういう道を歩んでこられたのであろうと思わされた。どんなに苦しく辛かったことだろう。
奥様の祈りお働きはもちろんなのだけれど、このご主人は本当にご自分の命(全て)を持ってこどもたちを主の道に戻したのかも知れないな・・なんても思わせられる。
上のお二人はそれぞれクリスチャンとの結婚が決まったそうだ(主を讃えます!)。


その中を通されていることは傍目にはわからないことも多い。
もちろん、わかりやすい働きも大切だし、その為に神はそういった賜物を与えていらっしゃる。けれども、その分かりやすい働きの中でも外見ではわかりにくい部分におけるしみ入るような証も多い。

どちらにも忍耐の時があって練られた品性というものが生み出され・・やがて希望を力強く証しする、・・主は豊かに用いられるのだ。(こうして文章にすると、なんとも単純で簡単な印象を与えてしまいそうで申し訳ない思い)

本当に、目に見えるところだけで判断してはいけないのだな・・とつくづく思う。

そして、こういうことを踏まえて、やはり「裁きは主がなさること」なんだよね。



*関係ないのですが、わたしの場合blogで敬体、常体を統一しようとすると、なんだか冷たい文章になるような気がして(&自分の感じていることを表せないような気がして)敢えてごちゃまぜ(といいつつ、本人にはそれなりのルールがあるような気もするのですが)にしていることが多いと思います。

2008-10-22

気になるミックス粉

北海道の大地で育った小麦とビートグラニュー糖を使用した、「おやつミックスmadre(マドレ)」。自然の味わいをそのまま楽しんで欲しいから、よけいな香料は一切使わずに仕上げました。アルミニウム不使用ベーキングパウダーを使っているので、アルミニウム摂取を心配される方にも安心してお使いいただけます。「ホットケーキ」「クレープ」「ドロップクッキー」「どら焼き」「きなこバー」のレシピつきで、毎日のおやつづくりを応援します!"


うぅーん、これ、いいですねぇ。
400グラム入りなら389円だし。
全粒粉もブレンドしてあるタイプもあるともっといいんですが。まぁ、それは自分でやればいいか。
って、今、palsystemのカタログを見ていたら、palのは800gで299円でした・・。国産小麦だし。うーん、アルミニウム不使用のBPではないけれどねぇ。やっぱりミックス粉を買わないで自分でブレンドするのが経済的・・って、んなこたぁわかってるわけだけどもさ・汗

今朝は久々にパンを焼きましたが、全粒粉100%でもすごくふっくり美味しく焼け、「お母さんのパンが世界で一番好き!」(まぁ、娘はそれほどいろんなパンを食べたことはないのですが・苦笑)なんていわれて・・、やっぱり手作りだよなぁ、家計にもやさしいしと思わされていたところでした。

秋と言えば、クオカではマロン系の品揃えも充実しているはず・・SABATONマロンピューレとか(生唾・でもコレ贅沢品だよね)。

(で、結局、クオカにはいきませんでした。行くと余計なモノまで買っちゃいますからねぇ・・ってことでラベルは久々の「清貧の食卓」決して聖貧ではありません念のため、節約節約ぅ・・っと)

デボーション、キャシーさん、唯人ブログ、ヤベツの祈り

霊によってであれ、言葉によってであれ、あるいは私たちから〔送られて来た〕とされる手紙によってであれ、〔これらのものが〕あたかも「主の日は〔すでに〕来ている」という趣旨〔のことを言つていると〕の理由で、すぐに分別を失って〔頭が〕混乱したり、恐怖心を抱いたりすることのないように。(2テサロニケ2:2岩波訳'95)

詳細は省きますがこれに関してはある意味、非常に耳が痛い鹿ちゃん(−−;


さて、今日は凄いタイトルですが・・。
以前、こんなふうなタイトルをつけて日記的blogにしていた頃の方が、振り返り(霊的にも)をしやすかった様に思えて実験的につけて(もどして?)みました。
カテゴリー分けって言うのも便利なんですが、振り返るときに、実はいろんなことが「(主にあって)繋がっている」ということがとても興味深いのですと、書きつつ、これも自分へのメモ。

昨日、『「40日のコミュニティ:2.何故、コミュニティが必要なのか」ピリピ人への手紙1章3~11節 尾山キャシー師(MP3)』を聞きながら、Tさんのblogにあった・・Kさん「尾山キャシーさんが『朝自分でディボーションせずして、どうやって子どもたちを導くのか』と語ったことが忘れられなくて、朝のディボーションを頑張っている」・・という箇所を思い出し、検索、他の記事もいろいろ読んで、暫し猛反省モード。
確かに日々、聖書は読んでいるけれど、最近は特に主への敬意が足りない。姿勢が甘い時が多いんだよね(こんな私の祈りも、主はいつも誠実に耳を傾けてくださるというのに!)。

尾山清仁先生の口内炎(かなり酷いらしいです)はその後どうなんだろうと思いつつ、教会サイトのリンクにある唯人ブログというのを覗いてみると、なんとこれは尾山令仁師のblogであった!ビックリ。
令仁先生は、いろんな関係で私の教会の牧師の先輩で・・、ということは既に80歳は超えておられるはず・・と思いながらいろいろ記事を読む。精力的に書いておられるなぁ(原稿だけお渡しになるのでしょうか?ご自身でタイプなさっているのでしょうか)。
HSのことにも少しふれていらっしゃいますねぇ・・、清仁先生はHSをなさっているわけですが・・・、ふむ、令仁先生はこういうスタンスだったのですね。
おお!令仁先生って玄米菜食なんですね!(妙に親近感&納得・笑)
ただ、祈りや主のご臨在・・霊的生活に関しては、私は「暗夜」というのが確かにあると思うのです。先生も多分、そういうことはご存知だと思うのですが、混乱を招くといけないのでこういうところには書かないのでしょうね。

わが家はそろそろ、就学前の健康診断。昨日は耳鼻科に行ってきました。

この件に関しては、もうね・・長いことずっと祈ってきたわけですが・・、
夏に「ヤベツの祈り(歴代誌第一4:10)」の箇所を通読してから、主は深い憐れみを持って何日かふれて続けて下さいました。
ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
 「私を大いに祝福し、
 私の地境を広げてくださいますように。
 御手が私とともにあり、
 わざわいから遠ざけて
 私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」
そこで神は彼の願ったことをかなえられた。


ああ、この祈り大胆に祈っていいんだな、そしてこの祈りを握って送り出していいんだな・・とゆっくり静かに頷かせて頂けて感謝しています。

今は平安です。

2008-10-19

「三浦光世さん」10/26NHK教育「こころの時代」am5:00-6:00

「こころの時代・~宗教・人生「祈り 苦難をともに40年」

出演 三浦綾子記念館館長・三浦光世 
ききて・山田誠浩 

作家・三浦綾子と歩んだ道、二人で見いだした信仰の光


◇三浦綾子記念文学館館長・三浦光世さん(84)が9年前に亡くなった作家であり、妻だった綾子さんとの歩みを振り返る。北海道開拓団の子に生まれた光世さんは3歳で父を亡くし、母とも離れて親せきに預けられた。そこでキリスト教と出合う。病の苦しさから自暴自棄になり、自死まで考えたこともあったが、兄の言葉をきっかけに愛について考え、心の救いを求めて聖書の世界に入っていった。光世さんは31歳の時、同人誌の縁で綾子さんと出会う。闘病中の綾子さんを見舞った光世さんは3度目には、自分の身を綾子さんにささげる覚悟を伝え、驚かせた。綾子さんとの結婚生活は信仰的基盤なしにはあり得なかった。綾子さんに次々と襲い掛かる病や苦難さえ、2人の結び付きをより深く、確かなものにしていったという。光世さんは今、綾子さんが作品に込めた願いを伝え続けている。(webTV番組紹介文より)



今日来たチアのニュースレターに載っていたのですが、10月26日(日)朝五時から六時にNHK教育テレビで、稲葉さんやチアに取材に来てくれたディレクターさんの番組(上記参照)が放送されるとのことです。
稲葉さんがNHKにいらしたころ撮られた映像も活用されているとのこと。

40日の旅blog

先日、調べモノをしていたら「40日の旅」というblogを見つけた。
ちゃんとしたPDJのというか聖書キリスト教会関係のblogらしいけれど、同じような内容の40日モノは本家site?のこちらにもあって、こちらだと「日々の旅ガイド」(PDFファイルです)や当時の関連礼拝メッセージの動画などもちゃんとリンク先にあるのでストレスがないと思う。

へぇ、こんなキャンペーンをしていたんですねぇ。知りませんでした。

しかし、書籍「五つの目的」の要約とはいえ、充分なテキスト&内容。
まぁ、PDJだし、リック・ウォレン氏の了解は得ているんだろうけど、太っ腹だなぁ。

web上にあると、興味を持っている方に紹介するのにも便利で助かりますよね。
わたしは、アドエスに入れて使おうかな・・とも思っています。(テキストはいいのですが、PDFを読むのは画面が小さくて辛いかな)
書籍「五つの目的」は、内容はもちろん装丁やデザインも素敵なのですが、ちょっと大きくて重いのが難点だと個人的には思いました。(って偉そうにスミマセン)

でも、site内容はもちろん、教会のプログラムなんかも充実している様ですね。

いろいろ見て読んで、わが教会を振り返ると・・・(これまた偉そうにスミマセン)。

あぁー、勉強(だけではないけれど)したいなぁ。

2008-10-18

聖書箇所:テサロニケ人への手紙第一、3章(以下の引用は口語訳聖書より・太字は鹿子による)

このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためである。
わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになる
(新改訳では「生きがい」)からである。


信仰(って賜物だけれど、・・うーん賜物だからこそかな)には力がある。
信仰者の姿にも力がある。自分にも他者にも慰めがある(賜物は神様からきているんだからね)。
テサロニケの人たちが主にあって堅く立つ様を見るのが生き甲斐だというパウロ(繰り返している)。

苦難や患難の中での、苦しいときの祈りは純粋。
切に主を求めている。それが慰め。それは励まし。
それだけが力というときもあるかもしれない。

(ちょっとサウルのことを思い出す。ポッと与えられたモノ。労せず手に入れたモノによって・・、それを主に感謝しないまま歩んでいると人はどうなるだろうということ等)


ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたら

「喜び」ってこういう類のことなのだ。
わたしの「喜び」が大きく違うところにあるなら、そして「あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っている」こういう類の願いが主になっていないなら、問題かも知れない。
一昨日の晩の祈りを思う。あの時間は神様からの特別な贈り物。あんなことがお出きになる(心に働きかけさせてくださる)のは主だけなのだ。

主があなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように

わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。

祈り:わたしも心からこういえ、祈れるように・・

2008-10-16

最近のことメモ

ちょっと記録まで

今週は、ヘビーな現実を目の当たりにさせられている。
が、この件に関しては詳しく書かない。

上記とは関係なく、バザーが無事に終わって、その後に娘の誕生日を祝い、翌日は何年ぶりかで来日したお友達と夕食(菜食系のお店でデザートもヘルシーで美味)、楽しかった。翌日は祈祷会、バザーの後かたづけと特伝のちらし配り。そのまた翌日はストーリーテリングの講習会。WSで読む本と、素話の候補とアンケートを提出。

ゲジオ(ゲノムと聖書)も日曜日に届いていたので、嬉々として読み始めたのだけれど(ものすごく面白い)、ちょうど娘の誕生日に44ページ辺りに差し掛かり、胸が締め付けられるようで中断中。
ゲジオは高いなんて書いてしまったけれど、現物を手にしてみると内容はもちろん、装丁やデザインも素晴らしく納得の価格(陳謝!)。

古書の「CSルイスとともにージョイ・デビットマン・ルイスの生涯」(新教出版社)も来てしまい、ちらりと読む(これまた面白い・・)。
目を通した箇所には特にジョイの置かれていた厳しい状況がいろんな角度から詳しく書かれていて、なんというかある意味励まされている。

WSの素話は、何故かチャレンジだ〜!と萌え、気に入っていたけれど長くて難しいので悩んでいた話しを申告。しかし、やはり実際に読むと7分ではとてもとても終わる話ではなくて・・絶対に変更せねばまずい・・うううぅ(−−;
あー、こんなにハードルの高い話をやろうってのは、やっぱり現実逃避したいってな意識の表れからかもなぁー。

とはいえ、個人的には根っこのところでは平安があるのだけれども。

私に委ね任されているところ、やるべきことは主にあってやらねば(やりたい)・・。


そして、うーん、すぐには動けないのは重々承知だけれど、働きたいなぁ。
(最近、働く素敵な女性たちを目にする&お会いすることも多し/娘もイエスさま&教会大好きで身近な伝道を彼女なりに可愛く積極的に開始したりしているしね)

素敵じゃないにせよ、ついこの間(といわせて!笑)までアタシもずっと働いていたのだよなぁ。
もう条件をうんぬんいえるどころか、口があるかどうかさえむちゃんこ厳しい状況なんだけれどね。
・・・・・はぅー。

焦るな。
そして、まずは静まって祈ろう(示された方はご加祷頂けると感謝です)。

2008-10-12

マクグラス博士の講演会にいってきまちた・・

講演会はもちろん、礼拝後はバザー準備や久しぶりのお友達にあったり、嬉しく楽しかったのですがなんだかもぉ、時間的に一杯一杯の聖日でありんした。
はぁー、でも、夕方の講演会に一人で出かけるなんて、何年ぶりだろう・・感激。も、つかの間、帰宅すると「はらぺこーズ」が待ち受けているので、どひゃんと夕飯を猛烈な勢いの15分でやっつけるアタシ(っていうのは、「おかぁーさん、本、届いてるよ」っとbk1からの包みを横目で見ていたからでもあるんだけど、うひひ)。

で、マクグラス博士の講演会「聖餐ーその歴史と実践」ですが、来春、DVD付きで書籍化されて発売とのことです(キリ新さんのwebで近日公開とのチラシを頂きました)。

マクグラス先生、今朝の11:20分に成田にお着きになったそうですよ・・。いや、なんかもう、これだけで恐縮してしまいますね。

講演は、通訳なし(これは時間的な関係でしょうか)。
マクグラス博士の(こちらからみて向かって右)後ろに、パワーポイント?で日本語のテキストが、どひゃどひゃどひゃっと映し出されて、初めは耳ダンボにしながら目で追うだけでも精一杯(あぁー!眼鏡持っていって良かったッス・・が、暗いところで黒字に白抜きの文字を追うのは辛かったです)。
内容的には、コミュニオンについてルターとツウィングリはどうとらえていたか等から始まって、すっきり正論・核心をついたお話しだったと(わたしは)思います。
平(&普通のオバサン)信徒なアタシでも頑張れば理解できる話し方をして下さっていて感謝でした。

Q&Aはさすがに通訳がありました。
これもDVDに入るのかな?結構、質問の挙手は多かったですよ。4つくらいの質問(コミュニオンの回数について、なぜ「コミュニオン」という単語を使ったのか、霊性について、幼児の聖餐について等)にお答え下さり、時間的な関係で途中でマクグラス先生が打ち切られました(キリ新の方は先生がストップしてくれて助かったとおっしゃっていました)。

講演にあたってのレジュメ、資料の配付は無し(;。;)。
これは、DVD付き書籍が出るので仕方ありませんね。


以降の講演は
明日13日は9:30−15:30まで池袋メトロポリタンプラザで、聖学院大学総合研究所創設20周年記念 国際シンポジウム「戦後リベラル・デモクラシーの伝統の再検討」

15日(水)は17:30−20:30
聖学院中学校高等学校4階ガイ・ホール(駒込/上中里)聖学院大学総合研究所創設20周年記念 学術セミナー「三位一体の神:一神教批判と多元主義を超えて」

私はこれ↑にも行きたかったなぁ・・。でも時間的に無理ですね。

2008-10-11

「今週はこんなことを心にとめながら祈ってみましょう」から

今週ももう終わりなのだけれど、夕べ読んで、いろいろ思わせられたのでメモ。

私が見つめることで、こんなふう↓に感じてもらえる夫婦に(特に「妻に」)なることなんて出来るのだろうか?とさえ思う。

夫:「僕は、妻に情愛をこめて見つめられると、自分自身を鏡で見る時にはない、内なる成長を感じるのです。」

妻:「私の夫が私を見る時、私は自分自身を見るよりももっと崇高で豊かな気持ちになり、私の中にもっとたくさんの可能性があるように感じるの。」

振り返ると、崇高とまではいかなくても私の方は、主人のことばやまなざしによって励まされてきたり、自分の知らなかった一面(あまり悪い方ではなく)を教えてもらえたことは多かったように思う。

それに対して、「このアタシはどうよ?」とても反省させられる(暫し落ち込み)・・。


そう思いながら何度か読みつつ「もしかしたら、このご主人は、以前は奥さんにこんなふうに見つめられなかったからこそ、こう感じるのかも知れない」との思いも湧く。
これは励ましだ(・・いや、その楽天的すぎますかね?・汗)。


成長。
私たちは、おとなになるように招かれている。

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13)

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 (1コリ13:11)

兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(1コリ14:20)

       ・・・・・・新改訳聖書より


「愛は成長するモノだよね」
これは、お互いに成長しているんだね。

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8/新改訳)





聖イグナチオ教会 − 「祈りの場」: "今週はこんなことを心にとめながら祈ってみましょう:


10月5日〜11日

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。(マルコ8:27-30)」というイエスからの質問は、並外れたものです。全ての人類の中で、イエスは彼自身が誰であり、彼の役割を知っている唯一の人で、しかも、彼の友だちからそのことを聞くことは、彼にとって重要とみなしていました。私たちは、互いの目で観察する中に生きています。私たちは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞くことに好奇心を持ちます。このことは、「私が噂や批評の種の標的になっているのか」と言う脅しになりえます。しかし、私たちは、互いに並外れた段階に向けて、建設的でいることができるかを見ているのです。父や母が私たちをどう見るかは、いつも私たちには重大です。それは両親だけでなく、かつて、既婚女性が友だちのグループに「私の夫が私を見る時、私は自分自身を見るよりももっと崇高で豊かな気持ちになり、私の中にもっとたくさんの可能性があるように感じるの。」と言いました。すると、彼女の夫は、「僕は、妻に情愛をこめて見つめられると、自分自身を鏡で見る時にはない、内なる成長を感じるのです。」と、付け加えました。

 そこで私は主に願います。「愛と建設的な目で他の人々を見る恵みを与えてください。私の目と私の心が、他の人々を豊かにし、支えることができることを決して忘れませんように」。
(太字は鹿子による)

2008-10-10

聖書箇所:ルカの福音書 11:15-26 (新共同訳
 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(太字は鹿子による)



主よ、あなたは私に何をおっしゃりたいのですか?



御言葉を聴きましょう

御言葉を、ゆっくりと繰り返し味わってください。もし、その中の言葉や節があなたの心にひびいたら、味わいがなくなるまで、次に進まないで、そこに留まりましょう。

それは、飴を味わうことに似ています。口に入れる前に飴の成分を分析しないのと同じように、みことばの分析をしないでください。

というのは、それに引きよせられていることの理由に気づく前に、私たちの心はすでに魅せられているのです。だからこそ、頭で分析しようとするのではなく、できるだけ長くそこに留まってみことばを味わうのがよいのです。

祈りの中で、私たちの心が「雑念」に悩まされることがあるかもしれません。しかし、それは必ずしも悪いことではなく、祈りの糧にもなりえます。意識、思考、記憶、内省、夢想、希望、野望、恐怖など、混沌とした内なる世界を照らす光に聖書はたとえられます。ですから、神のことばと私たちの内なる感情や思考との出会いから祈りは生まれてきます。

*雑念

このように祈っていると、心が疑問や雑念の渦に巻き込まれることがあるかもしれません。—私は自分自身を欺いているのではないか?これらは本当に神の言葉なのだろうか?神は、みことばをとおして、本当に私と関わろうとしているのだろうか?私は神を信じているのだろうか?—もっともな疑問ですが、今はそのままにしておきましょう。夜を恐れる子供は、「だいじょうぶよ」という母親の声で落ち着きを取り戻します。しかし、その子が「お母さんの主張は何が目的なのでしょう?」とか、「お母さんの主張を裏付ける実証的証拠は何ですか?」と返したのなら、どうでしょう。自分と主の関係が明らかになるまで神の声に耳を傾けないというのなら、私たちは、祈りにおいて、夜を恐れる子供のようなものです。神とのまじわりは心から始まります。心には、理性にはわからないもっと深い理由があります。

では、心に押し寄せて来る雑念にどう対処すればよいでしょうか。ガスをつけっぱなしにしなかっただろうか、メールを出し忘れてはいないだろうかと疑い始めたとき、それがガスのように緊急のことなら、すぐに行ってチェックするのがいいでしょう。急を要さないものであれば、書き留めておくのもいいでしょう。それ以外、心に浮かんでくるものは、雑念どころか、祈りの糧となる可能性があります。


*照らす光としての聖書

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という聖書の始めの言葉は、「過去」ではなく「今」を語っています。そして、私が聖書をとおして祈るとき、神の霊が私自身のカオスや闇の上に漂っているのです。

私のカオスに神の言葉を迎え入れるとき、何でも起こりえます。なぜなら、主なる神は驚きの神だからです。内なる世界を、主の言葉や自分自身に隠さないことは大切です。また、私たちは、往々にして祈りに否定的な感情、特に、神に対して否定的な感情が入るのを悪いことだと教えられていることがあります。私たちは、すべてを受け入れてくださる寛大な神の前で、感情や思いを自由に表すことを学ばなければなりません。私たち自身以上にわれわれのことを知っている神の前で、自らを演じる必要はありません。

神の言葉に照らされて、あなたの考え、感情、望みの中で、祈りになりえないものは何ひとつありません。それは、神が不完全なあなたを愛し、あなたの中に聖霊が働いているからです。(太字は鹿子による)


・・・・* 悪魔を追い払うことをイエスの力を入れていた活動でした。悪魔とは日々の日常の中で、●●に私たちを傾けようとする力に与えられた名前です。今日では、それが、●●となって私たちを支配します。祈りの中で、私たちに取り付いている悪魔は何であるか神さまに明かし、助けを求めましょう。神さまから私たちを引き離し、他者を傷つける力から救ってもらいましょう。(●●としたのは鹿子・「祈りの場」の御言葉への黙想のヒント「行き詰まり?」の文章とは違っています)


対話

神の言葉は、私をどのように動かしましたか?
何も感じさせませんでしたか?
慰めましたか?あるいは、新しい方向へ踏み出すよう、促しましたか?

イエスが、私の横に立っているか、座っているのを想像します。

イエスの方を向き、感じたことをイエスと分かち合います。




memo
*注・・・今夜はこの祈りと御言葉の黙想によって、思いがけず(というのは大変不信仰ですよね)非常に助けられました!


しかし、大きな声でハレルヤと騒ぎたてたくはないのです。

神の御前で

しばらくの間、私はさまざまな物質の中に覆われて
存在する神について考えてみます。
神は各要素の中でそれらを存在させ、植物には生命を、動物には感覚を与え、
さらには、私の中にも存在し、これらのすべて、そしてそれ以上のものを与え、
私を神の神殿、聖霊の住みかとして下さるのです。




(解決のカギはこういうところにあるのだと思うのです。
しかし、いつしか傲慢にならないよう注意することが一人では難しいのかもしれません。)


静かに噛みしめて、もう一度祈って休みます。
感謝。

(memo以外は、「祈りの場」からの引用です。)

意識すること

私はいろいろな関わりの中に生きています−自然、人、神とのつながり。
そこから流れ出るいのちに感謝しながら、その一つひとつをたどって行きます。
ある繋がりは歪んでいたり、壊れていたりしています。
それで私は、後悔、怒り、失望を感じているかもしれません。
受け入れる心、ゆるす心を祈ります。


意識の究明とは?

もし、神が私たちの人生のあらゆる細部に至るまで働いておられるのだとすると、私たちはどのようにして、神からの働きかけと、それに対する私たちの応答に気付くようになるのでしょうか。

人は、一日の終わり、特に眠りにつく前には、意識的に何の努力もせずとも、その日に起こったいくつかの出来事が心の中に鮮やかに蘇るものです。特に色々な出来事のあった日には、しばしば眠れなくなるほどです。時には頭の中で口論を再現し始めたりします。もう少し機転が利いたなら、もっと気の利いた痛烈なことを言ってやれたのに、などと思いながら・・・。

意識の究明は、こうした心の持つ自然な傾向に基づくものです。これによって私たちは、日々の生活における神の現存と働きに、より多く気付くことができるようになり、また自分がどこで神の恩寵に協力できているのか、あるいはどこで恩寵を拒否しているのかについて、より敏感になることができるのです


意識の究明のしかた

あなたの心を過去24時間の出来事の内に漂わせてみてください。よいと思えることであろうと悪いと思えることであろうと、一切の自己判断はせずに。それから一日の中であなたが感謝できる瞬間だけに注意を向けて、それを味わってみてください。最も苦難に満ちた日でさえも、私たちがそれに目を向けようとしさえすれば、少しはよい瞬間があるものです。それはしとしとと雨の降る景色である日もかも知れません。あるいはそれが、私は目が見えるという事実である日もあるかも知れません。この霊操をするようになると、たいていの人は一日の内にどれほど多くの、そして多種多様なよい瞬間があるかを知って驚きます。それらは、もしこの霊操をしていなければ、すぐに忘れるか、恐らくは同じ日に起きたつらい出来事によって、意識されないものになっていたはずなのです。自分が感謝できる出来事を思い出すことによって、神に感謝し、神を讃えましょう。
感謝を捧げた後、次のステップはあなたの心の中の気持と感情を思い出すことです。その時、できることならどうしてそのような気持になったのかに注意してください。ただし、ここでも一切自己判断をしないようにしてください。このようにして自分の過去の気分を眺める際には、キリストと共にいるようにして、それらの気持の下に隠れている態度について知ることができるよう、主に願ってください。重要なことは、自分の経験を分析したりせず、キリストの現存のうちにそれについて黙想することです。そしてどこで自分の内に主を受け入れ、どこで主を拒んだのかを、主ご自身に示して頂くように願ってください。「主の栄光に満たされた」時について感謝し、主がこられるのを拒んだ時について、許しを請うてください。主は、必ず許してくださいます。主は私たち自身よりも私たちの弱さをご存知なのです。私たちはただ主にそれをお見せすればいいのです。そうすれば、主は私たちの弱さを強さに変えることがおできになります。最後に、次の日を見据えて、神の助けを求めるような短い祈りで締めくくります。



      主よ、あなたは私自身よりも私のことをご存知です。
      主の霊は、私の人生のあらゆる瞬間に満ち満ちています。
      私の上に降り注いでくださった恵みと愛に感謝します。
      私の人生にあなたをお迎えするようにと、
      絶えず優しく招いてくださることに感謝します。
      あなたの招きを拒み、自分をあなたに向かって
      閉ざしてしまった時があったことを、どうかお赦しください。

      どうか明日も私を助けてください。私の人生の只中に、
      あなたがおられることに気付くことができるように。
      あなたに向かって自分を開くことができるように。


            イグナチオ教会「祈りの場」より
      私の内であなたに働いていただけるように。
      あなたのより大いなる栄光のために。アーメン

自由をもとめる祈り

私たちが神の道具として仕えるために、この祈りは何らかの手助けをしてくれることでしょう。聖イグナチオはこの“準備の祈り”を「自分のあらゆる意向と行動と働きが、ひたすら神への奉仕と賛美だけに向けられるよう、主の助けを願う」(『霊操』46)と説明しています。試しに下の言葉を口にしてみてください。

主よ、今、この時のため、よく備わっていることを強く望みます。
わたしの全てを喜びつつしんであなたに捧げます。
わたしの思いを明らかにし、清められるよう導いてください。
矛盾した望みがわたしの内にあり、
むなしいものやはかないものに心がとらわれます。
わたしは知っています。もし主にわたしの魂を捧げるなら、
わたしのなすことは新しい魂に従うことを。

この祈りのとき、わたしの全存在と
わたしの試みようとするすべてのこと、
すべての出会いと思い、わたしの生涯、葛藤や失敗までも
あなたの御手にゆだねることができますように。
主よ、わたしはあなたのもの。
あなたの御計らいのとおりになりますように。
アーメン。

                   ・・・・イグナチオ教会「祈りの場」より

呼吸法memo:「祈りの場」より

息を吸う時に、自分の人生の中で求めている全てのもの(たとえこの練習の中で手に入れるのは無理のように思えても)を心の中で描きます。反対に息を吐く時には、全てを(不安、過ち、罪、後悔に満ちた人生を)神に委ねることを想像してください。

肯定的あるいは否定的になろうとなるまいと、自己判断をしないで上記のエクササイズをすることが大切です。自分の中にある全ての不安を神に委ねたいという思いに意識を集中させてください。まるで宝物であるかのように、不安にしがみつかないでください。


イグナチオ教会「祈りの場」:神の御前でー祈りのガイドー神の現存の認識ー呼吸法

2008-10-07

三年前の記事:JBTM.orgから「魂の暗夜」

上沼先生、三年前にも書いていらっしゃいましたね。で、メモ。

追記
つまらないことかも知れませんが、アビラのテレーゼはアビラのテレジアとかアビラのテレーズ、アビラのテレサの方が日本語で書く場合は分かりやすいというか、すぐにピンと来るかもしれませんね。
日本ではリジューのテレーズ(小テレーズ)の方が有名かもしれません(ちなみにマザー・テレサのテレサはリジューの方から頂いたそうです)。共にカルメル会。アビラの方は大テレーズと呼ばれます。『完徳の道』、『霊魂の城』が有名著書。

もういっこ追記
この記事は、'05年の12/26日に書かれたはちこさんの日記でも扱われていましたね!
し・・・しかも、アタシ(psalm42)、コメントもしてましたよ(・・すっかり忘れてるし・大汗)
「・・>>そのようなことがないことが福音的であると思ってしまっている
というふうには、感じたことがなかった様な気がします(^^;」だって、ひぇぇー!あの頃はそうだったんだー!これは健全だったというより、ただ鈍感だっただけかも・・ですね(苦笑)
やれやれ。

JBTM.org: 「魂の暗夜」2005年12月5日(月):
"彼は、福音主義の明確な悔い改めのメーセージによってキリストによる救いをいただいた恵みを感謝している。しかし家族の続いての病のなかで自分の魂の暗夜を経験させられた。神が自分から離れてしまったように思う。詩篇77篇の作者と同じ経験をさせられた。福音的な信仰を持っている人も多くが魂の暗夜を経験をさせられているのであろうが、認めることを恐れている。そのようなことがないことが福音的であると思ってしまっているからである。

 チャック・コルソンは「魂の暗夜」に関しての歴史的な代表として、アビラのテレーゼと十字架のヨハネをあげている。さらにチャールズ・スポルジョンにも言及している。福音主義のポジティブな面はすばらしい。しかし信仰生活は一見ネガティブと思われることをしばしば経験させられる。それが逆説的に神に近づく道であることをみてこなかった。

十字架のヨハネには文字通り『暗夜』という本がある。彼は「感覚の暗夜」と「霊の暗夜」と分けている。私たちが試練や苦悩を通して経験させられるのは感覚の暗夜である。それに対して霊の暗夜は、神は感性でも理性でも捉えることができないので、神に近づけば近づくほど何も見えない霊的な闇の世界のことである。自分の持っているものをすべて取り去られてまったく裸の状態で神に対峙している状態である。光りである神の前に出るためには通らなければならない霊の暗夜である。十字架のヨハネは私たちが苦しみを通して経験する魂の暗夜を幾重にも深めている。「やみを隠れ家」(詩篇18:11)としている神に限りなく近づいている。


自分の魂の暗夜を認められると神が自分の心の深くにいてくださると分かる。信頼して自分の心の底に降りていくことができる。そこでは闇が幾重にも深く覆っていて全くの暗闇であるが、なお神がどこかで観ていてくださると信じることができる。暗闇のなかでは何もできないでお手上げの状態なので、ただ神を待ち望むことを学ぶ。暗闇の向こうに夜明けが待っていることを信じることができる。

"

2008-10-04

エペソ書:お忘れになっていない神様

あぁー、エペソ書、やはりいつ読んでもとてもいいので読み進むのが楽しく、なんだかもったいない感じまでしちゃいますね。
今回の助けは、この間も書きましたが十年前のホーリネス坂戸キリスト教会の説教要約テキスト。うぅ〜っ、感謝です。
わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

この年('98年)の標語聖句だったんですねぇ。
'98年の初めごろに別の場所で村上先生のメッセージを聞く機会があって、そこでも同じくエペソ書からの取り次ぎでした。その時もとても感動したのですが、今回、このテキストを読みながら「奥義」ということを思うとき、前回の感動をかかえて喜びながらなおも内側から嬉しさがしみじみわき上がる感じを得ています。
神様が、この時も今も、こんな私を実はずっと待っていて下さり、この十年間にあったいろいろなことを通してそれぞれが主にあって結び合っており、刈り取りの歩みの中でさえも親しく話して下さるという、なんともいえない勿体ない思い・・。

アタシは実際、こんな歩みしかしていないものなのに、お忘れになっていないのだ。
忘れていない・・・、忘れる事なんて絶対にないお方なのだ。

そして
「神は私たちを無条件で受け入れ、高価で尊い者として愛して下さいます。何の見返りも条件もなく、ただ無償の純粋な愛で愛しています。」

「人知では測り知ることのできない愛とは、あの放蕩息子が家に帰ったとき、迎えてくれる父の測り知ることのできない愛です。与えて尽くしても惜しくない愛です。時には子供のために与えることをとどめることもありますが、そこにも深いみ心があるのです。病気が治ることを求めたパウロに、神様はその弱さの中に私の恵みはあなたに対して十分だと答えました。人知を越えた平安と愛の最善をあたえる方に、栄光があるようにと祈っているのです。」

力も能力もなく、逃げ出したい時があっても、なにひとつ取り柄なしでも、弱さを誇る。なざならその時に神が働いてくださるからです。

2008-10-03

ルース・ソーヤー「ストーリーテラーへの道」序文より

・・この本を最初に書きはじめた頃、私の子どもたちは、まだほんの子どもでした。その頃私たちは、毎年春になるとー三月から四月にかけてー、ケネス・グレーアムの『たのしい川べ』をひっぱり出してきて、「モグラは、その朝じゅう、いっしょうけんめい、じぶんの小さな家の大掃除にかかっていたのでした」と読み始めるのがならわしになっていました。・・・・略・・・・『たのしい川べ』の中の多くは、わが家の末っ子が理解するにはむつかしすぎました。けれども末っ子は、心で感じとれるものは、何一つ逃すことなくうけとっていました。・・・略・・・この本には一カ所だけ、私たちがためらいがちに、というよりもむしろ、恐れをいだいて接するところがありました。毎春、「あかつきのパン笛」の章にやってくると、私たちは、もちろんおのおのの心の中ででしたが、次のような不安におそわれたのです。つまり、動物たちの友だちであり、救い手であるパンの神に出会うところで、こんどもまた、いままでに読んだときと同じように、魂の高揚や、祝福感、そして気おされるような畏敬の念を、感じることができるだろうか・・と。
わが家の末っ子があるとき、こんなことをいいました。「この町の人たちは二つに分けられるね。モグラやネズミやアナグマを知っている人たちと、知らない人たちにね。」
・・・・略・・・・
私は神秘を信じます。ほんのしばらくの間肉体の眼でみることをやめて、神聖で不滅なるものをみつめ、それが真実であることを知る、それだけで十分です。ネズミといっしょに、「こわいって?この方を?こわいもんか、こわくなんかあるものか!だけどーだけど、やっぱり、−ああモグラ君、ぼく、こわいよ!」ということだできればそれでいいのです。
この本は、おはなしを語るにはどうしたらいいか、またどんなおはなしをすればいいかなどについて書いた本ではありません。ちょうど中世に、使徒ヤコブの歩いた道を、巡礼たちが冨や権力のためでなく、「魂が奥底から強く求めているもの」を探し求めて歩いたのと同じように、ストーリーテラーへの道を求め、歩んでいこうではないかとのよびかけであり、すすめなのです。その方が、いかにしてとか、なぜとかいう方法論や、テクニックをうんぬんするのにまさるものであると信じます。ストーリーテラーをつくるものは、主として心の経験です。私はそう強く信じます。心の経験なくしては、たとえいかなる芸術においてであろうと、表現のためのすべての努力は、「やかましい金や騒がしい鐃鉢(じょうはち)とおなじである(*1コリント13章)。」ということにしかならないと思うのです。

ルース・ソーヤー「ストーリーテラーへの道」序文より

本好きな子ども:思いの原点

ところで、「本好きな子どもになって欲しい」(「せめて本は好きになって欲しい」等)という親の願いについては、いろいろなところで良く耳にするわけですが・・・。
なんといいますか、夜、照明電気が消されてからは、赤外線こたつに潜ってまで読みふけった本好きな子ども道(というのがあればですが・苦笑)まっしぐらだった私は、複雑な心境になってしまうんですね。

本の世界にはまりすぎて、空想の世界に逃げ込むことも多々ありましたし(とはいえ回りには明るい少女としか写っていなかったと思いますが)、その他にもいろいろ弊害はありました。また、「せっかく本が好き」でもそれをあんまり有効に活用してこなかった気もします。

それと、本をあまり読まなくても素敵な方は実際に沢山いらっしゃるんですよね。
反対に本好きでうさんくさい方々って言うのもいらっしゃいますし・・。

ただ、やっぱり「子ども頃の読書時間」というものに特別な思いがあるのは確かですね。
あの世界を思い出すと、ほんとうに今でも胸がきゅんとします。
「この世界を知らないのは勿体ないよぉ〜!」というのが、お話しボランティアに関わりたいという思いの原点かもしれませんね。

webクリップ:子どもの本棚

実は今、お話しボランティアの講座を受けていて(これがまた、とっても良かった!後で書きたいなぁ)、ストーリーテリングの本を読んだり、ワークショップに向けていろいろ絵本や素話を選んだりしていて、それに夢中になってしまっています。

そんなわけで、ストーリーテリング関係を検索していたら、「子どもの本棚」というsiteを発見したのでMemo!
お話し・ストーリーテリングについてはこのあたりが特に参考になります
知りたいことが良くまとまっていてとっても勉強になりますね〜(感激)。

今読んでいる「ストーリーテラーへの道」ルース・ソーヤー著も、もの凄くいいですよぉ!(わたしはすっかり子どもの頃のあの読書の森に佇んでいる気分です・・涙)

う!ゲジオって2,730 円なのね・・

そういえば、ゲジオ:「 ゲノムと聖書 」を買おうと思ったら、なんと¥2,730だった(価格チェックしていなかったんだよね・大汗)ので、bk1でJCBカードのOki Dokiポイントプログラムを利用させてもらうことにした。
bk1なら24時間以内に発送できる書籍の場合、このポイントが使えるんだよね!
思い出せて良かったぁー!恥ずかしながら、買い物帰りに書店にちろっと寄ってこの金額をポンっとは出せない貧乏性主婦のアタシなのでした(^^;
ポイント利用だと届くまでに一週間くらいかかるみたいなんだけれど、アヤラの「 キリスト教は進化論と共存できるか? 」も読み終え(ってか、ちら読みのみ)ていないのでちょうど良いかも(これまた・汗)。