2008-10-11

「今週はこんなことを心にとめながら祈ってみましょう」から

今週ももう終わりなのだけれど、夕べ読んで、いろいろ思わせられたのでメモ。

私が見つめることで、こんなふう↓に感じてもらえる夫婦に(特に「妻に」)なることなんて出来るのだろうか?とさえ思う。

夫:「僕は、妻に情愛をこめて見つめられると、自分自身を鏡で見る時にはない、内なる成長を感じるのです。」

妻:「私の夫が私を見る時、私は自分自身を見るよりももっと崇高で豊かな気持ちになり、私の中にもっとたくさんの可能性があるように感じるの。」

振り返ると、崇高とまではいかなくても私の方は、主人のことばやまなざしによって励まされてきたり、自分の知らなかった一面(あまり悪い方ではなく)を教えてもらえたことは多かったように思う。

それに対して、「このアタシはどうよ?」とても反省させられる(暫し落ち込み)・・。


そう思いながら何度か読みつつ「もしかしたら、このご主人は、以前は奥さんにこんなふうに見つめられなかったからこそ、こう感じるのかも知れない」との思いも湧く。
これは励ましだ(・・いや、その楽天的すぎますかね?・汗)。


成長。
私たちは、おとなになるように招かれている。

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13)

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 (1コリ13:11)

兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(1コリ14:20)

       ・・・・・・新改訳聖書より


「愛は成長するモノだよね」
これは、お互いに成長しているんだね。

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8/新改訳)





聖イグナチオ教会 − 「祈りの場」: "今週はこんなことを心にとめながら祈ってみましょう:


10月5日〜11日

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。(マルコ8:27-30)」というイエスからの質問は、並外れたものです。全ての人類の中で、イエスは彼自身が誰であり、彼の役割を知っている唯一の人で、しかも、彼の友だちからそのことを聞くことは、彼にとって重要とみなしていました。私たちは、互いの目で観察する中に生きています。私たちは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と聞くことに好奇心を持ちます。このことは、「私が噂や批評の種の標的になっているのか」と言う脅しになりえます。しかし、私たちは、互いに並外れた段階に向けて、建設的でいることができるかを見ているのです。父や母が私たちをどう見るかは、いつも私たちには重大です。それは両親だけでなく、かつて、既婚女性が友だちのグループに「私の夫が私を見る時、私は自分自身を見るよりももっと崇高で豊かな気持ちになり、私の中にもっとたくさんの可能性があるように感じるの。」と言いました。すると、彼女の夫は、「僕は、妻に情愛をこめて見つめられると、自分自身を鏡で見る時にはない、内なる成長を感じるのです。」と、付け加えました。

 そこで私は主に願います。「愛と建設的な目で他の人々を見る恵みを与えてください。私の目と私の心が、他の人々を豊かにし、支えることができることを決して忘れませんように」。
(太字は鹿子による)

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