2008-10-04

エペソ書:お忘れになっていない神様

あぁー、エペソ書、やはりいつ読んでもとてもいいので読み進むのが楽しく、なんだかもったいない感じまでしちゃいますね。
今回の助けは、この間も書きましたが十年前のホーリネス坂戸キリスト教会の説教要約テキスト。うぅ〜っ、感謝です。
わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

この年('98年)の標語聖句だったんですねぇ。
'98年の初めごろに別の場所で村上先生のメッセージを聞く機会があって、そこでも同じくエペソ書からの取り次ぎでした。その時もとても感動したのですが、今回、このテキストを読みながら「奥義」ということを思うとき、前回の感動をかかえて喜びながらなおも内側から嬉しさがしみじみわき上がる感じを得ています。
神様が、この時も今も、こんな私を実はずっと待っていて下さり、この十年間にあったいろいろなことを通してそれぞれが主にあって結び合っており、刈り取りの歩みの中でさえも親しく話して下さるという、なんともいえない勿体ない思い・・。

アタシは実際、こんな歩みしかしていないものなのに、お忘れになっていないのだ。
忘れていない・・・、忘れる事なんて絶対にないお方なのだ。

そして
「神は私たちを無条件で受け入れ、高価で尊い者として愛して下さいます。何の見返りも条件もなく、ただ無償の純粋な愛で愛しています。」

「人知では測り知ることのできない愛とは、あの放蕩息子が家に帰ったとき、迎えてくれる父の測り知ることのできない愛です。与えて尽くしても惜しくない愛です。時には子供のために与えることをとどめることもありますが、そこにも深いみ心があるのです。病気が治ることを求めたパウロに、神様はその弱さの中に私の恵みはあなたに対して十分だと答えました。人知を越えた平安と愛の最善をあたえる方に、栄光があるようにと祈っているのです。」

力も能力もなく、逃げ出したい時があっても、なにひとつ取り柄なしでも、弱さを誇る。なざならその時に神が働いてくださるからです。

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