2008-10-07

三年前の記事:JBTM.orgから「魂の暗夜」

上沼先生、三年前にも書いていらっしゃいましたね。で、メモ。

追記
つまらないことかも知れませんが、アビラのテレーゼはアビラのテレジアとかアビラのテレーズ、アビラのテレサの方が日本語で書く場合は分かりやすいというか、すぐにピンと来るかもしれませんね。
日本ではリジューのテレーズ(小テレーズ)の方が有名かもしれません(ちなみにマザー・テレサのテレサはリジューの方から頂いたそうです)。共にカルメル会。アビラの方は大テレーズと呼ばれます。『完徳の道』、『霊魂の城』が有名著書。

もういっこ追記
この記事は、'05年の12/26日に書かれたはちこさんの日記でも扱われていましたね!
し・・・しかも、アタシ(psalm42)、コメントもしてましたよ(・・すっかり忘れてるし・大汗)
「・・>>そのようなことがないことが福音的であると思ってしまっている
というふうには、感じたことがなかった様な気がします(^^;」だって、ひぇぇー!あの頃はそうだったんだー!これは健全だったというより、ただ鈍感だっただけかも・・ですね(苦笑)
やれやれ。

JBTM.org: 「魂の暗夜」2005年12月5日(月):
"彼は、福音主義の明確な悔い改めのメーセージによってキリストによる救いをいただいた恵みを感謝している。しかし家族の続いての病のなかで自分の魂の暗夜を経験させられた。神が自分から離れてしまったように思う。詩篇77篇の作者と同じ経験をさせられた。福音的な信仰を持っている人も多くが魂の暗夜を経験をさせられているのであろうが、認めることを恐れている。そのようなことがないことが福音的であると思ってしまっているからである。

 チャック・コルソンは「魂の暗夜」に関しての歴史的な代表として、アビラのテレーゼと十字架のヨハネをあげている。さらにチャールズ・スポルジョンにも言及している。福音主義のポジティブな面はすばらしい。しかし信仰生活は一見ネガティブと思われることをしばしば経験させられる。それが逆説的に神に近づく道であることをみてこなかった。

十字架のヨハネには文字通り『暗夜』という本がある。彼は「感覚の暗夜」と「霊の暗夜」と分けている。私たちが試練や苦悩を通して経験させられるのは感覚の暗夜である。それに対して霊の暗夜は、神は感性でも理性でも捉えることができないので、神に近づけば近づくほど何も見えない霊的な闇の世界のことである。自分の持っているものをすべて取り去られてまったく裸の状態で神に対峙している状態である。光りである神の前に出るためには通らなければならない霊の暗夜である。十字架のヨハネは私たちが苦しみを通して経験する魂の暗夜を幾重にも深めている。「やみを隠れ家」(詩篇18:11)としている神に限りなく近づいている。


自分の魂の暗夜を認められると神が自分の心の深くにいてくださると分かる。信頼して自分の心の底に降りていくことができる。そこでは闇が幾重にも深く覆っていて全くの暗闇であるが、なお神がどこかで観ていてくださると信じることができる。暗闇のなかでは何もできないでお手上げの状態なので、ただ神を待ち望むことを学ぶ。暗闇の向こうに夜明けが待っていることを信じることができる。

"

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