2008-10-03

ルース・ソーヤー「ストーリーテラーへの道」序文より

・・この本を最初に書きはじめた頃、私の子どもたちは、まだほんの子どもでした。その頃私たちは、毎年春になるとー三月から四月にかけてー、ケネス・グレーアムの『たのしい川べ』をひっぱり出してきて、「モグラは、その朝じゅう、いっしょうけんめい、じぶんの小さな家の大掃除にかかっていたのでした」と読み始めるのがならわしになっていました。・・・・略・・・・『たのしい川べ』の中の多くは、わが家の末っ子が理解するにはむつかしすぎました。けれども末っ子は、心で感じとれるものは、何一つ逃すことなくうけとっていました。・・・略・・・この本には一カ所だけ、私たちがためらいがちに、というよりもむしろ、恐れをいだいて接するところがありました。毎春、「あかつきのパン笛」の章にやってくると、私たちは、もちろんおのおのの心の中ででしたが、次のような不安におそわれたのです。つまり、動物たちの友だちであり、救い手であるパンの神に出会うところで、こんどもまた、いままでに読んだときと同じように、魂の高揚や、祝福感、そして気おされるような畏敬の念を、感じることができるだろうか・・と。
わが家の末っ子があるとき、こんなことをいいました。「この町の人たちは二つに分けられるね。モグラやネズミやアナグマを知っている人たちと、知らない人たちにね。」
・・・・略・・・・
私は神秘を信じます。ほんのしばらくの間肉体の眼でみることをやめて、神聖で不滅なるものをみつめ、それが真実であることを知る、それだけで十分です。ネズミといっしょに、「こわいって?この方を?こわいもんか、こわくなんかあるものか!だけどーだけど、やっぱり、−ああモグラ君、ぼく、こわいよ!」ということだできればそれでいいのです。
この本は、おはなしを語るにはどうしたらいいか、またどんなおはなしをすればいいかなどについて書いた本ではありません。ちょうど中世に、使徒ヤコブの歩いた道を、巡礼たちが冨や権力のためでなく、「魂が奥底から強く求めているもの」を探し求めて歩いたのと同じように、ストーリーテラーへの道を求め、歩んでいこうではないかとのよびかけであり、すすめなのです。その方が、いかにしてとか、なぜとかいう方法論や、テクニックをうんぬんするのにまさるものであると信じます。ストーリーテラーをつくるものは、主として心の経験です。私はそう強く信じます。心の経験なくしては、たとえいかなる芸術においてであろうと、表現のためのすべての努力は、「やかましい金や騒がしい鐃鉢(じょうはち)とおなじである(*1コリント13章)。」ということにしかならないと思うのです。

ルース・ソーヤー「ストーリーテラーへの道」序文より

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