2008-10-10

聖書箇所:ルカの福音書 11:15-26 (新共同訳
 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(太字は鹿子による)



主よ、あなたは私に何をおっしゃりたいのですか?



御言葉を聴きましょう

御言葉を、ゆっくりと繰り返し味わってください。もし、その中の言葉や節があなたの心にひびいたら、味わいがなくなるまで、次に進まないで、そこに留まりましょう。

それは、飴を味わうことに似ています。口に入れる前に飴の成分を分析しないのと同じように、みことばの分析をしないでください。

というのは、それに引きよせられていることの理由に気づく前に、私たちの心はすでに魅せられているのです。だからこそ、頭で分析しようとするのではなく、できるだけ長くそこに留まってみことばを味わうのがよいのです。

祈りの中で、私たちの心が「雑念」に悩まされることがあるかもしれません。しかし、それは必ずしも悪いことではなく、祈りの糧にもなりえます。意識、思考、記憶、内省、夢想、希望、野望、恐怖など、混沌とした内なる世界を照らす光に聖書はたとえられます。ですから、神のことばと私たちの内なる感情や思考との出会いから祈りは生まれてきます。

*雑念

このように祈っていると、心が疑問や雑念の渦に巻き込まれることがあるかもしれません。—私は自分自身を欺いているのではないか?これらは本当に神の言葉なのだろうか?神は、みことばをとおして、本当に私と関わろうとしているのだろうか?私は神を信じているのだろうか?—もっともな疑問ですが、今はそのままにしておきましょう。夜を恐れる子供は、「だいじょうぶよ」という母親の声で落ち着きを取り戻します。しかし、その子が「お母さんの主張は何が目的なのでしょう?」とか、「お母さんの主張を裏付ける実証的証拠は何ですか?」と返したのなら、どうでしょう。自分と主の関係が明らかになるまで神の声に耳を傾けないというのなら、私たちは、祈りにおいて、夜を恐れる子供のようなものです。神とのまじわりは心から始まります。心には、理性にはわからないもっと深い理由があります。

では、心に押し寄せて来る雑念にどう対処すればよいでしょうか。ガスをつけっぱなしにしなかっただろうか、メールを出し忘れてはいないだろうかと疑い始めたとき、それがガスのように緊急のことなら、すぐに行ってチェックするのがいいでしょう。急を要さないものであれば、書き留めておくのもいいでしょう。それ以外、心に浮かんでくるものは、雑念どころか、祈りの糧となる可能性があります。


*照らす光としての聖書

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という聖書の始めの言葉は、「過去」ではなく「今」を語っています。そして、私が聖書をとおして祈るとき、神の霊が私自身のカオスや闇の上に漂っているのです。

私のカオスに神の言葉を迎え入れるとき、何でも起こりえます。なぜなら、主なる神は驚きの神だからです。内なる世界を、主の言葉や自分自身に隠さないことは大切です。また、私たちは、往々にして祈りに否定的な感情、特に、神に対して否定的な感情が入るのを悪いことだと教えられていることがあります。私たちは、すべてを受け入れてくださる寛大な神の前で、感情や思いを自由に表すことを学ばなければなりません。私たち自身以上にわれわれのことを知っている神の前で、自らを演じる必要はありません。

神の言葉に照らされて、あなたの考え、感情、望みの中で、祈りになりえないものは何ひとつありません。それは、神が不完全なあなたを愛し、あなたの中に聖霊が働いているからです。(太字は鹿子による)


・・・・* 悪魔を追い払うことをイエスの力を入れていた活動でした。悪魔とは日々の日常の中で、●●に私たちを傾けようとする力に与えられた名前です。今日では、それが、●●となって私たちを支配します。祈りの中で、私たちに取り付いている悪魔は何であるか神さまに明かし、助けを求めましょう。神さまから私たちを引き離し、他者を傷つける力から救ってもらいましょう。(●●としたのは鹿子・「祈りの場」の御言葉への黙想のヒント「行き詰まり?」の文章とは違っています)


対話

神の言葉は、私をどのように動かしましたか?
何も感じさせませんでしたか?
慰めましたか?あるいは、新しい方向へ踏み出すよう、促しましたか?

イエスが、私の横に立っているか、座っているのを想像します。

イエスの方を向き、感じたことをイエスと分かち合います。




memo
*注・・・今夜はこの祈りと御言葉の黙想によって、思いがけず(というのは大変不信仰ですよね)非常に助けられました!


しかし、大きな声でハレルヤと騒ぎたてたくはないのです。

神の御前で

しばらくの間、私はさまざまな物質の中に覆われて
存在する神について考えてみます。
神は各要素の中でそれらを存在させ、植物には生命を、動物には感覚を与え、
さらには、私の中にも存在し、これらのすべて、そしてそれ以上のものを与え、
私を神の神殿、聖霊の住みかとして下さるのです。




(解決のカギはこういうところにあるのだと思うのです。
しかし、いつしか傲慢にならないよう注意することが一人では難しいのかもしれません。)


静かに噛みしめて、もう一度祈って休みます。
感謝。

(memo以外は、「祈りの場」からの引用です。)

0 件のコメント: