2008-09-30

ガラテヤ書:教会の交わりの中で福音が確認された

さて、先日からガラテヤ書を読んでいます。
合わせたようなタイミングで二年前のwebメモを先日読む機会を与えられましたが、今は Wikipediaにも福音書だけでなく書簡の説明などが沢山あるんですね(ちなみにガラテヤ書はこんなふうです)!
ネットで検索すると礼拝説教やデボーションノートなどがゴロゴロヒットしてくるようになりましたし・・、スゴイです。
(私が言うまでもありませんが「どういう立場の方が書いているものなのか」チェックすることは大切ですが)

今回は、四年くらい前の村上宣道牧師(ホーリネス坂戸キリスト教会)のガラテヤ書講解説教がヒットしてきたので、Memo !
ガラテヤ書全体を郷谷先生と交互にメッセージしていらしゃいますね。

パウロは、わたしが宣べ伝えた福音以外に福音はないと言います。なぜなら「人間によるものではなく、イエス・キリストの啓示によったから」です。啓示は大切な真理です。神を知ることは人間の力ではできません。人間は勝手に「神々」を作り出すだけです。神が、神の側からご自身を示してくださるときに神が分かるのです。それが啓示です。ローマ書1章17節に「神の義は、その福音の中に啓示され」「信仰による義人は生きる」と語られています。
 この啓示は、イエス・キリストを通しての啓示です。神がどのようなお方かは、キリストを通して分かるのです。もともとパウロはキリスト者を迫害していた人です。でもイエス・キリストと出会った。そして生きておられるイエス・キリストから真理を教えられ、福音を信じたのです。アラビヤで沈黙の3年間を過ごし、この啓示が深められ、人生が転換した。旧約聖書の全部を見直し、キリストを指していると分かり、この福音以外にないと確信した。そしてペテロと主の兄弟ヤコブとに会い、教会の交わりの中で福音が確認されたのです。
    ・・ボールドは鹿子による


今回は「教会の交わりの中で福音が確認された」というところが胸に響いてくる。
パウロだって、教会の交わりの中で福音を確認したんだね(じぃいーーーーん)。

ここ何ヶ月か、いろいろ決めることややることがある関係で、話し合いや集まりも多いのだけれど、その度に思わせられていたのは、教会の規模に関係なく「神様は、教会に必要な賜物(をもった信徒や教職者だけでなく様々なことも)をちゃんと備えて下さる」ということ。
これをひしひしと感じながら奉仕に携われるというのは、本当にスゴイ感謝&恵みなんです(しみじみ)。

また恵みがなおざりにされ、人間が主とされるからです。罪からの救いは人間の行いとは関係なく恵みです。なのに良いことは自分のよさ、悪いことがあったら自分の悪さと考える。そんなことはない。まさにあるのは恵みだけです。・・中略・・パウロはこんな自分が福音を語っている、これが恵みだと言います。ああ、恵みです。福音は徹底的に恵みなのです。


村上先生は「恵み」っていうことをいつもこれでもかとメッセージなさいますね〜。
「ああ恵み、我にさえおよべり」が讃美だったのでしょうか。
「我にさえ」というところも強調されていましたっけ。いつも謙遜であられ決してこのことをお忘れにならないんですね。
ここを忘れてしまうと、恵みを忘れてしまうからでしょうか。「忘れる」ということについては三章でもお話し下さっています。

今朝の私のデボーション箇所は4章。
ここでは郷谷先生の語られた、「パウロの罪意識と恵み」そして「一緒にいることを喜ぶ」が強く響いてきました・

おそらくパウロは、自分は取り返しのつかない罪を犯したと時々苦しんだのではないでしょうか。彼はキリスト者を捕らえ、ステパノの殉教を手伝ったからです。それでも神を父と呼んでいい、それが恵みなのだ、とパウロは言うのです。
・・・・・中略・・・・・
一緒にいることを喜ぶことは、夫婦でも親子でも人間関係全てに通じます。キリスト品川教会の吉村牧師が「ふたりで読む教会の結婚式」に、「結婚は『一緒に生きること』が目的です。『あなたがいてくれたらいいんだ』と言えることです」と記されています。教会も同じです。主イエスにより救われた神の子たちが同じ神を仰いで「お父さん」と神を呼び礼拝する。これがキリストがあなた方の間に形づくられることです。一緒に礼拝している、これがキリストのかたちです。
    ・・ボールドは鹿子による


家庭における父親の役割」も興味深く拝見。これ、大事なことが簡潔にまとまっていていいなぁ。
村上先生のお嬢さん(米国で結婚カウンセリングをなさっておられるとのこと)がおっしゃった「愛は成長するものだよね」という言葉に慰められます。
それと、しつけ糸のしつけって、躾からきていたんですね!・・知らなかった(−−;
実は、わたし「しつけ糸」が必要な箇所でもそれをしないで強引に作業を進めて失敗したという・・痛い経験が多いにもかかわらず、相変わらず「なんとかしないですませられないか」と考えるってなお裁縫の人なのです。
ちょっと調べてみると、日本では「しつけ糸」の名称の方が先という節もあるようです(『・・こどものしつけなどに使用される「しつけ」は和服の着物を縫い上げたとき、その折り目を正しく保つために用いる「しつけ糸」からきているという説もあるらしい・・』:参照)。
レンズ豆と一緒ですね。なんだか不思議な気がします。


ロマ書、エペソ書もあり。

2 件のコメント:

kazukor さんのコメント...

わたしも最近になって初めて”一緒にいる”ことの大切さを学びました。
成す技ではなく、共にいること。

鹿子さんと共にいる時間がもてるといいですね。日本についたら連絡します。

Unknown さんのコメント...

今日、教会から借りてきた雑誌で堀肇先生の「解釈しない恵み」という記事を読みましたが、「共にいることの大切さ」に通じる、とても考えさせられる記事でした。
ちょうど、堀先生にいろいろ確認やお願いなどの電話もする機会を得たのですが、文章通りの感じの受け答えだったなぁ・・としみじみ感じたのを、このコメントを読みながら再確認しました。ビックリ&感謝です。
いろいろお忙しいでしょうが、主がお時間を下さるのなら、ゆっくりお話しさせて頂きたいです。