2008-09-06

朝のデボメモ:鬼母の件、書きかけの分

このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。(歴代誌 下12:12 /新改訳)


今朝の聖書箇所は、こことラザロのところからカヤパの預言まで。詩編76.

ゆうべ、はちこさんの日記:鬼母と主の贖いを読んでいて、あまりにも自分の姿と重ねあわせ(←鬼母の描写例の方をですが)、胸が締め付けれられて涙が出た。せめて感謝のコメントくらいはしようと思ったが放心してしまい、氷ついたように手は動かず何もかけなかった。

子育てについてはもちろんなのだけれど、同時に主の前に正直である事を痛切に思わせられる。

以前、どこかに書いたかもしれないが、日本人に比べて米国のクリスチャンは「嘘をつかない」ということを大変大切にするように思う(私の知る限りだけれど)。
子育てにおいても「まぁ、いいじゃないの、これくらい。子どもなんだから」という様な事は無く、子どもの方も自分がつく嘘はもちろんつかれた嘘にも敏感だ。
ここ暫く思わせられていたことは、これは、主の前に正直であることの良い訓練になるなぁというか、素晴らしい土台/下地になるのだなぁということだった。

嘘って慣れてしまうものだとよく言われる。
日本人として、「方便として嘘をつくことを雰囲気的によしとする風潮」を巧みに読みとって成長して来た私は、神の前に正直になる事がなんと難しかったことか。
このことに気がつくのにも時間がかかったし、日本人特有といわれるアノ「甘え」によって手をつけられなかった時間も長い。今でも、決してこの事にきちんと対処していないように思える。


memo:正直と赤裸裸(ちょっとこの単語の意味は私の感じているものと違っていたようなので訂正したいのすが、適切な言葉が見つかるまで保留します)とは違うこと。
証の中で、自分の歩みを赤裸々に綴るということは特にweb上では多数、見受けられるように思う。
これは、ネットの特質なのかもしれない(確かに、このことによって助けられる方々は一部あるとも思う)が、blog等では、はちこさんのように抑制の利いた描写くらいでとどめておくのが主にある配慮なんだとあらためて強く教えられた。

・自己憐憫に浸らない為(証は私がではなくて、主が)
・読み手にとっての躓きや誘惑とならないため。


ああ、主の前に誠実に歩みたいな。
拙くとも。
格好わるくとも。

助けて下さい。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

しばらく前に、鹿子さんが「不完全なままで召されていること」という記事を書かれていましたよね。
私が書いたあれは、実は、鹿子さんが使っておられた「不完全なままで召されていること」に誘発されて(?)書いたものだったんですよ。書いてから、実際にアップするのに、なぜか間が空いてしまったのですが。
私にとって、母親であることこそ、一番不完全なままで召されていることで、だからこそ、主の恵みと憐れみを一番痛切に感じられる領域なのかもしれません。

あと、この鹿子さんの記事を拝読して、私の子育てが少しずつ変えられていった背景には、子供の成長とともに「子供に対しては取り繕えない/嘘をつけない」という思いが強くなっていったことがあったなぁと思い出しました。表面的には「しつけ」と称して叱っていても、私の心が正しい場所にないときは、たとえ子供は何も言わなくても、ちゃんと感じ取っているのだと気づき始め、恐ろしくなったんですね。外の人はいくらでもごまかせても、子供だけは私のありのままの真実の姿を見ている、と。
その気づきが、私を切実に神様の御前に押し出しました。

あの記事、コメントやメールなどで思いがけずたくさんの反応があって、改めて自分を含む多くの母子、ご家庭のために祈らされています。

Unknown さんのコメント...

え!そうだったんですか・・。
アレ(「不完全なままで召されていること」)は記事というほどまとまっていなくて、単なるメモなんですが・・、私もずーっと気になって心にとめておきたかったことなのです。
あの時は「対人関係」から「寛容や愛」を探られましたが、その後で「不完全なままで召されていること」を自分へ向けていました。
この作業は、どうしようもなく落ち込むくらい嫌なものなのですが、やはり全てが主の栄光が現れるためなんだな・・と思えます。
あるところまで歩ませて頂けて気がつくのですが、痛みながらで傷だらけのプロセス:道のりを主は慈しみと忍耐をもってともなって下さるんですね。

>>
表面的には「しつけ」と称して叱っていても、私の心が正しい場所にないときは、たとえ子供は何も言わなくても、ちゃんと感じ取っているのだと気づき始め、恐ろしくなったんですね。外の人はいくらでもごまかせても、子供だけは私のありのままの真実の姿を見ている、と。
その気づきが、私を切実に神様の御前に押し出しました。
<<

そうなんですよね。
何も言わなくても、確かに子どもはちゃんと感じ取っていますね・・。
これは日々、つきつけられていて、本当に祈っています。

でも、中村家のお子さんたちの今の言葉に励まされました!
エミちゃんは、お母さんが泣いて祈っていたことを覚えていらっしゃったんですね(ここでも涙しちゃいました・・)。

そして、お子さんたちそれぞれが、「主によって母は変えられたのだ」「神様って凄いね!」と神を賛美している事。

神様のご栄光が現されるとき、ほんとうにそこには「死ぬべきものがいのちに飲まれる(2コリント5:4)」があるんだなぁと思い
、ヨハネ9:1-12のシロアム池の盲人のところを思い出しました。

沢山の反応があったとのこと、なんかわかります。それぞれが置かれている場所で,主の助けと励まし、導きが豊かでありますように、主の御栄光があらわされますように・・。

良い記事にこころから感謝します!

匿名 さんのコメント...

>エミちゃんは、お母さんが泣いて祈っていたことを覚えていらっしゃったんですね

そうなんですよ!
私にとっても、実はあの記事はこの部分が一番のポイントでした。私の悪行(!)も覚えていたけれど、泣いて祈っていたことも覚えていた… 当時のエミは7歳前後のはずなんですよね。母が泣きながら祈る姿を見て、その理由はわからないけれど、彼女の心に残っていたのですね。そして、今、その理由がわかり、神様がその祈りに答えてくださっていたことは、現在の自分自身がその証であるということ… 彼女にとって、これほどパワフルなことがあるでしょうか。私が計画したことではなく、ただただ神様がなさってくださったことです。主の御名を讃えます。
不完全なままで召されていればこそ、それだけ主のご栄光が明るく輝かされるのですね…

>痛みながらで傷だらけのプロセス:道のりを主は慈しみと忍耐をもってともなって下さるんですね

アーメンです。 いつもありがとう!

Unknown さんのコメント...

七歳前後ですか・・十年くらい前ということになるのでしょうか。心に残っていたんですねぇ。

家の娘ももうすぐ六歳・・と思ったら冷や汗が出て来ました(ーー;

>>
不完全なままで召されていればこそ、それだけ主のご栄光が明るく輝かされるのですね…
<<

そうですね。ホントですよね。
イエス様は一言声をかけるだけで、いや、信じるだけでも、癒しをなされるお方ですが、長い時間をかけてともに歩んで頂いていることは、凄い恵みなのかも知れません。

私たちは愚かで獣の様にわきまえがないこともご存知で、そのまんま祈っても受け止めてくれる方・・
足りないところは聖霊さまがうめきを持って執りなして下さるともおっしゃる。

これが私たちの神なのですね。
この方が不完全なまま召されたもののうちに良い働きを始められ、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを. 私も堅く信じて行きたいと思います。

すみません。
涙が出て来て、もう書けなくなっちゃった。
書き直した方がイイかもしれませんが、この気持ちをこのまま送信します。

「不完全なままで召されていること」をメモさせて頂いたことを主に幾重にも感謝して・・