2008-09-07

ヘブル語は直球

ちょっと前にも書いた事があったかもしれないけれど、教会学校教師向け教案誌:CS成長に連載されている菊池実先生の「聖書の世界ー考古学と地理の光を当ててー」という記事がとても興味深い。毎回、楽しみだし、いろいろ教えられる。
今回の内容も濃くて、いろいろ書きたい事はあるのだけれど・・。以下の分だけMEMO(原文ママの引用ではなく、鹿子により省略や要約、多少の書き換えがなされています)。


今現在のイスラエルではヘブル語が使われている。
二千年前にエルサレムが陥落して以来、ヘブル語は宗教の言葉、つまり聖書や祈祷文などのことばでしかなかったけれど、二十世紀初頭には日常の言葉としてパレスチナのユダヤ社会にヘブル語が日常会話の言葉としてほぼ定着し、新聞も出される様になった。そこまでの間に面白い事は沢山あるらしい(飛行機等聖書の時代に無かったことばをどうするかなど・・というエピソードは、所属教会の牧師からも以前,聞いていた)。

例えば、電気はエゼキエル1:4「輝きの様なもの」と訳された「ハシュマール」。イスラエルの至るところに観られる「ミクラット」(防空壕)は、民数記35章にある「のがれの町」の転用、聖書で「つかさ」を意味する言葉「ショテル」は「警察官」等々。

日常的に使われる言語であれば、いろんな国と同じで、新語や学術語、外来語にも絶えず応答する必要がある。流行語も生じるし、文法が乱れてくることもあるそうだ。
けれども変化の中に絶対に変らない聖書があることが強みだと菊池実先生は続ける(アーメン!そうだよなぁ!)翻訳なら変るけれども、彼らの聖書はそのまままったく変ることがなく、ヘブル語を支えて来た。

原題に適応する為には、造語だけではもちろんなく、すばらしいのは聖書の大半の言葉がそのまま現代にも同じ意味を持ち(これってやっぱり凄い!)、昔と変わらないで今も人々の生活の中に響いて(菊池先生がつかっておられるこの響くという表現も素晴らしいですね!)いる、人の基本的な営みや性(さが)は、聖書時代と変る事が無い。その中で、神の御思いを託されたヘブル語は、今もそのままに人に届く言語であり、悔い改め、正義、隣人、愛、真理、アーメン、聞き従う、聖さ、平和,神、主、救い等々の言葉が現代のイスラエルで日常的に用いられるという事は羨ましい限りだともお書きになっています。

日常的な呼びかけ等でよく耳にする「シューブ!」という言葉は「戻っておいで!」とか「もう一回!」という感じでつかわれるそうだが、これは日本語の聖書で「悔い改めよ」と訳されている言葉と同じとのこと。
彼らには、悔い改めるることは神に戻る事という認識が極普通なのだそうだ。
(これまた凄い・感動・・!)

ユダヤ人は昔からヘブル語を「聖なる言葉(レション・ハ・コデシュ)と呼んで来た。神がご自身の啓示に用いられた言語であるからであるが、実際、現代のヘブル語に反映されている通り余分な言い回しや,曖昧さが無く、端的、簡潔、明瞭とのこと。

詩編23篇「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」は、ヘブル語聖書ではわずかに四語で表現されるのだそうで・・
「アドナイ(主は)、ロイー(私の羊飼い)、ロー(無い)、エクサール(私は欠ける)」

接頭語や接尾語あってのこととはいえ、訳に間違いの生じる余地は無いそう。
(同じ箇所を英、独、ラテン、ギリシャ語で読めば、この節だけでも9-15語を費やしている)

ヘブル語は抽象的表現を嫌い、意味も明瞭な例として・・
「礼拝する」と訳されている箇所は「ひれ伏す」という具体的な言葉。同様に祈るは「とりなす」であり、「信頼する」は「寄りかかる」、「感謝する」は「的を射る」(これ、面白い!)、「苦しみ」は「狭いところ」(であるから、神は私たちを広いところへ導かれるのだそうだ!)また、「希望」とは「待つ事」だそうです(!)
このように、具体的であり、直接的なのがヘブル語。
言葉がはっきり見え、躍動し、主体、責任、目的、内容を明確にすると続き、最小の言葉をもって最大の神の心を的確に伝えるのがヘブル語であり、アブラハムが選ばれたとき、この言語も選ばれたのだとも。
神が明確な意思をもって救いの計画を進められ、また私たちに迫っている事を感じ、神のメッセージも,伝達の言葉も直球。
言葉は民族性と呼応しあう。アラブ人は日本人と似て建前と本音を使うのに対し、イスラエルの人はまっすぐであり、つき合いやすいそうだ。


もっといろいろあるんですが、このくらいにしておきます。
面白いですよねぇ。これ、連載が終わったら書籍にならないかなぁー。前の号に書かれたものなども無性に読みたいと思うのでした。

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