2008-05-31

深谷先生「こころのエッセイ 」より

こころのエッセイ:
・・・私は聞いていて、その方の澄み切った眼差しを見つめながら、話が進展するに従って何か違うものを感じてきていた。
 
 どうも聖霊派の世界は、どこかに静かに成功哲学が忍び寄ってくるものだ。それが愛という名前だったり、癒しという名前だったり、神の勝利という名前だったりする。どこかで十字架を避けて、自分たちは楽な道を歩こうとする。自分たちは神の救いの結果だけを受け取って、そこで栄光を手に出来るという甘い汁だけをすすろうとする。

 十字架を避けようとするキリスト教はキリスト教ではない。たといキリスト教を謳い、人を集めていようともそうではない。一体無傷な神が聖書のどこにいるのだろう。イスラエルの背信で悩み、痛み、キリストとしてこの世に来られ、しかもその愛は受け付けられず、体を裂かれ切って行く神のどこに痛みのない神がいるだろう。人間と共に人間の中で呻く聖霊のどこに、アパティアがあるのだろう。

 痛みに基づく愛が人間をどこまでも包もうとする。担おうとする。それがキリスト教の神の本質であって、それ以外ではない。逐語霊感を謳いながら、一体聖書のどこを読んでいるのか。

その神の傍らに立とうとすればそれだけで否応なく傷を負う。ホセアのように人生を通して神の痛みへの追随を命じられることもあろう。個人史の中の傷が、神の痛みとシンクロして語られているのがホセア書である。

 確かに単純に考えれば、傷はないほうがいいように思われる。援助者は健康さが必要だというのも常識的な話である。しかし、反面常識的に考えて、傷を持たずに現代に生きることは信仰者であっても出来ない相談である。

 世の中の人々と共に、自分もまた傷を受けて生きる。しかし、その傷を神の前にもって行く。神の前にもって行き、神にささげ、神の内側に見ていく。そうする深い作業を通してしか人は自分の傷というものを真珠に変えられることは出来ないように思う。

過度に単純化された何か、は人を誘う。しかし神と人間の間の秘密はもっと深い。

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