2008-05-27

Romans 2:1-3:8; 1 Samuel 10:17-11:15; Psalms 56

roma2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
1Sam10:27 しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。
ps56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前にわたしを歩ませられたからです。(聖句引用は著作権の関係で口語訳'95から)



memo
1Sam10:27は確か、昨年か一昨年も抜き出した筈だ。とても記憶に残っている。
今年は、違う意味で抜き出し。


人に勧めた関係で、またしても藤掛明先生のblogの過去ログを漁るが、もの凄くイイ。
こういったものをもっと早く読みたかった・・とも思うが、30そこそこの頃のアタシではわからなかったかもしれないな。
んー、わかる・・というか、理解はできたろうと思うが、今、読んで感じるような深い思いは湧かなかっただろう。これは「人生の四季」も同じような気がする。

Hディレクターって誰だろう、Sさんじゃないの?と思っていたら、H山さんでは?と思い当たる。そっかー、そ、だよね。

「水谷豊の思い出」・・思い出からのクレソンに関する描写が興味深い。
私は「愛しのエリー」だなぁ。予備校ですよ。予備校。といっても、美大の予備校なので木炭とか油絵の具のニオイ。コンペティションでの屈辱。それと夏休みの午前中。

さて、シンドイ読書だった「神の御心にななう妻」だけれど、この書籍を通しての導きははっきりと与えられたような気がする。
『主人が賛成していないことは、神様からはっきり進むなといわれているのと同じ。がっかりするよりはっきり提示して頂いていることを感謝すること。』
これは、チアを通して稲葉さんの文章からも与えられたメッセージだ(「ご主人が反対している方は決して無理にしないで下さいね」)。

とはいえ、これは体のイイ諦めじゃないのか?という思いがないわけではないから、何度も祈り考えた。

で、思い巡らせながら、やっぱり、一時期凄く脱力してしまった(休止期間)。
だって、園までやめて、白い目で見られながら(教会でさえ)やってきた部分って言うのは歴然とあるんだもの。
一体今までのコレは、なんだったのだ・・と。

ちょっと「どこ愛」を再読。
私はコンベンションに行ったら、回りを見て確実に羨むだろう。来年はいよいよ就学だし、今までよりずっとこの思いは強く大きくなるはずだ。
この思いは確実に大きく強くなっていき、矛先が主人への不満に繋がることは明白。カレとしたら、とんだ迷惑だろう。
当然ながら、主は、それをお喜びにならないだろう。

そもそもの動機は「神様がお喜びになる道を歩みたい」だった筈。

今まで、やってきたことは(人には滑稽に見えても)私たちには無駄じゃなかったはず。
いろいろ気づかせられたし、何より夫は信頼して任せてくれて絆も深まり愛情は増したのだ(娘とも)。
ここまでだって奇跡的。感謝なんだよね。

ああ、メモして良かった。少しすっきりしてきたかもしれない。

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