2008-05-24

Acts 28:17-31; 1 Samuel 6-7; Psalms 53

act28:20事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」 22 わたしたちは、あなたの考えていることを、直接あなたから聞くのが、正しいことだと思っている。

1sam6:3彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。

1sam7:9そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。

ps53:2愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。(引用聖句は口語訳)


memo

1sam6:3を読みながら、イザヤ55:11 を思い出す。口語だとちょっと感じが違うけれど「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」 むなしくのニュアンスを思い巡らせる。

そういえば、先日やっとコパンの番組(LL)を録画したDVDを観ることが出来た。
証しの中で、詩篇103編の「あなたの一生を良いもので満たされる」という箇所が引用され(この讃美曲も流れる)、後半の村上先生のメッセージではこの「良い物」という言葉はヘブル語で「成熟」という意味もあることを知り、ああそうなのか・・と深い頷きがあった。

「成熟」「大人になる」

このことは密かに私のここ数年の課題。
トゥルニエの「人生の四季」の内容がさざ波のように寄せては返す。

「おとなになったときには、子どものことをやめました。」とパウロはいう。

でもね、鹿ちゃん、すっぱりきっぱり出来ない自分(他人)を受け入れよう。
うだうだを引きずりながらもその中でだってある部分では、私たちは聖を見あげ選んでいくことが主にあって出来るんだもの。
そこを見よう。そこから励ましを受けよう。

一生、続いていくこと。忍耐。

早朝、娘の夢を見て目が覚めた。
家の仕事のお手伝いをしてくれて、それが済むと一人で表へ出かけていこうとする。
「え?ひとりで?危ないじゃない・・」
止めようとするが、娘は小走りに公園の方へ向かっていってしまう。
夫もいるのだが止めない。
私は気をもみながらも、娘は成長したのだということに気がつく。そしてなんだかそのことが淋しい自分を見て、そろそろ娘への対応(と自分も)に軌道修正のようなものが必要なのかも知れないと思わせられている。

不思議なことに、娘が小走りしていた公園へ向かう道は、昔の祖母の家から裏の公園へ向かう道だった。
娘は白いレースのリボンをしていて、走るとそれが揺れ、その後ろ姿がとても印象に残っている。


パネルシアター用のフィギアは殆ど仕上がった。闇と光を感じてもらうために懐中電灯をつける箱も制作。
お塩も用意して舐めてもらおう。
娘はとてもとても楽しみにしている。
フィギアの制作過程も興味津々で、自分もまねして折り紙やクレヨンで作っていた(夕方、発表もしてくれた・笑)。
「お母さんがやっていること好き?楽しい?」と聞くと「うん!」との答え。
「じゃぁ、よおーっく見て覚えていてね。聖書もよおく学んで、高校生くらいになったら、あなたも幼稚科さんにやってあげられるようにね」
「うん!でも、幼稚科さん、いるかなぁー」
「与えられるようにってお祈りしていこうね」

この奉仕が与えられていること、本当に感謝です。



さて、娘との聖書タイムを始めよう。
今日はヨシャパテ王のお話と1サム2:9から「足をまもってくださる」

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