2009-02-27

携帯投稿@雪とレントとCS

寒いなぁと思っていたら雪(「初雪」?)になりました。
まだ、みぞれなので積もらないかもしれないとも思いますが、子連れでもあり大事をとって今日のお見舞いは中止に。
娘は、何度も窓から様子を見てはそわそわワクワクどきどき♪

さて、今年はレントの黙想に、ジョン・パイパー「イエス・キリストの受難」(訳は藤本満先生)を一項目づつ読んでいます。
五十項目の受難に関する理由、目的を聖書から集めたものです。


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神の律法が求めるところは「心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命6:5)」です。しかし私たちの心は、神以外のものをより愛します。これが罪なのです。ーーー神にまさって他のものを好み、その趣向によって生きることで、神の栄光を傷つけることが罪なのです。ですから、聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と記しています。私たちは自分がもっとも楽しんでいるものをあがめています。そしてそれは神ではありません。
罪は決して小さいものではありません。なぜなら罪を犯した相手は小さな主権者ではないのです。侮辱の深刻さは、侮辱した相手の尊厳の大きさに応じて決まります。宇宙の創造者は、私たちが尊敬、誉れ、忠誠をささげるに限りなくふさわしい方です。よって、神への愛を失うことは、些細なことではありません。それは反逆行為です。神の誉れを傷つけ、人の幸福を破壊します。
 神は義なる方ですから、これらの犯罪に目をつぶることがはありません。神は罪に対して聖なる怒りを燃やされます。・・・・・中略・・・・イエス・キリストという身代わりは、ただ怒りを取り下げるのではなく、それを吸収し、怒りの方向を私たちからご自身へと転換されたのです。神の怒りは義であり、そしてそれは差し戻されたのではなく、キリストにぶつけられました。
 神を軽く考えたり、神の愛を矮小化するのはやめましょう。私たちが自分の罪の深刻さ、そしてそれに向けられた神の怒りの正しさを正面から受け止めるとき、神によって愛されている現実に圧倒されるでしょう。・・・以下略(「1,神の怒りを吸収するため」22-24ページより)


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この書籍は五年くらい前に出版されたものですが、確か、ことば社さんがかなり綺麗で力の入った書籍紹介ページをweb上にアップされていて、それは今でも閲覧できると思いますので、興味のある方は検索してみて下さい。

教団の月刊紙に、所属教会のCSの様子が紹介され、
子ども達は大喜び。
先聖日は、特に恵まれ、個人的に問題だと悩んでいたことに光があてられた気が・・。感謝。

いろんな意味で深く心を探られ、思い出に残るレントの期間となりそうです。

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