2009-05-28

memo:自制、御霊の実、ありのままで愛されていること

はっつぁんのblogに自制ということが書いてあり、ちょっと黙想。

してはいけないとわかっていることを、たとえしたくても、しないでいることは「自制」。
なすべきだとわかっていることを、たとえしたくない時でも、行なうこともまた「自制」。
そして、「自制」は御霊の実。御霊に満たされているところには自制もある。


ありのままで愛されていること、完全に受け入れられていること、圧倒的な愛。
主の圧倒的な愛を思う時、聖霊の臨在を感じることは多い。

自制、御霊の実って。
こういう前提が必要なんだよなぁ・・とあらためて思わせられる。

主のために制したいという思い。そこにある喜び(もちろん、喜びにいたるまでの辛さもあるけれど)。
犠牲の意味あるいはもう一つの側面。

よく論争?の種として出される「酒に酔ってはいけません。・・・・・御霊に満たされなさい。」という御言葉も、メッセージとして大切なのは後半と言われる。



2 件のコメント:

はちこ さんのコメント...

この週末にあった日本人クリの修養会で、聖書の家族観というセミナーがあり、そのときの聖書箇所がエペソ5、6章でした。「御霊に満たされなさい」からはじまって、妻たちよ、夫たちよ、子どもたちよ、と続き、そして霊の闘いについて語られていることが指摘され、主にある夫婦関係や育児、家庭生活とは御霊に満たされていることが前提であること、夫婦関係や育児、家庭生活こそ一番の霊的闘いの現場であること、などが語られ、心にしみました。家庭が一番の霊的闘いの現場であるというのは、以前からも聞いていましたが、改めて納得した次第です。

Unknown さんのコメント...

はちこさん
コメントありがとうございます。
あのね、私・・、娘に主のことはもちろんですが「満足の遅延」を教えようって、心砕いて来たつもりなんです。
でも、凄く大切なことを忘れていたかもしれない。
それが、御霊のことです。

エペソ書ってスゴいですよね。
パウロは牢獄で瞑想する機会といいますか時間が多かったのかな。
圧倒的な頌栄で始まって、内容も霊的ですよね。永遠、とか神の救いの本質的なこと、教会の目に見えないことについて深い洞察がなされてますよね。

その書の中からのメッセージで家庭のこと、そこが霊的戦いの場であることが語られるって、深い頷きとともに・・軽い形容で逃げたいのかもしれませんが相変わらず「スゴく痛い」鹿子です。

聖書(同時に主)は、私たちがどんな状況や状態であろうとも、本当に家庭のことについて深く細やかにそして霊的に触れ、わたしたちに教えようと手を差し伸べてくれていますよね。そしてこれは圧倒的です。

結婚ということ。
家庭に置かれるということ。
夫を支えるということ。
胎の実を頂き、育成に従事させて頂けること。

なんと軽く見て来てしまったのか・・。

うなだれつつ
それでも圧倒的な愛を変わらずに注ぎ伴って下さる主に
・・・・



んー、なんかもう書けないです。すみません。