2009-07-31

追記:「キリスト者同士の人間関係」( 著:来住 英俊)のレビューもあった

あ、CLSKの「風の色」の話しの続きですが・・・
わたしも先日読んで、ををぅ!!と感じていたので、同じ書籍がタイミングよく紹介されていて驚き。

それと、この書籍(キリスト者同士の人間関係):特に第6章の2「間違っているかもしれない」は染み入り、大きな励ましを得ました。
藤掛明先生のblogにあった「間違いをものともせず働かれる神」というところを思い出しつつ、プチ感動。




「そんな選択などどうでもよい」という言葉の真意は説明するまでもないでしょう。選択は大事です。しかし、それを包み込むさらに大きな視野、神の世界があるということなのです。・・・・来住神父


memo:ケルトの教会について聞いてみる

CLSK「風の色」:会員向け小冊子にケルトの教会についての記事があり、短い文章ながらとても興味深かった。
で、ふと思い出したのだけれども、母教会の元主牧も個人的にこういった事を調べていたような・・・。ちょっとメールしてきいてみよう。ということで健忘メモ。
でも、皆さんお忙しいのに時間の管理がしっかりしていらして凄いな・・と思う。
私なんて目先のことに捕われて右往左往しているばかり。ナサケナヤ・・。
以上、通勤途上にて

今日のお弁当

久しぶりに玄米を炊いたので(最近は七分づきでした)、ごましおお握りにしました。
味付け焼肉は人参とピーマンとしめじと水菜入り。
また卵・・。
そしてミニトマト・・・。彩りと栄養を考えるとどうもワンパターンになりがちな私。

ローマ 14:13

"それゆえに私たちは、もはや互いをさばかないようにしようではないか。むしろあなたがたは、兄弟に対して妨げになるものや躓きを置かないようにするという、そのことを決心しなさい。"

主イエスにあって私は、〔次のことを〕知り、そして固く信じている。すなわち、それ自身のゆえに穢れているものは何もない――何かが穢れていると考える者、その者にとってはそれは穢れている。

実際、もしも食物のゆえにあなたの兄弟が心痛を抱くとするなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいるのではない。あなたの食物によって、その人を、滅ぼしてはならない。その彼のためにキリストは死んで下さったのである。

それゆえに、あなたがたの善きことが謗られることのないようにしなさい。

なぜならば、神の王国は食べることや飲むことではなく、むしろ義、そして平和、そして聖霊における喜びだからである。

このことにおいてキリストに隷従する者は、神に喜ばれる者であり、また人々の信頼に値する者なのである。

したがってそれゆえに、私たちは平和〔をもたらす〕ことがらや、互いのために建てること〔をもたらす〕ことがらを、追求しようではないか。

(岩波訳:ローマ 14.1-23:)

2009-07-30

今日のお弁当

三色ピーマンとウインナの煮浸し(酢醤油)
焼売、ゆで卵、エビピラフ
甘い味と色目を考えてカラーピーマンにしましたが、煮浸すとなんか汚く見えますなぁ・・涙
ご飯が切れていたので、冷凍エビピラフなのですが、国産野菜(タマネギ、人参、インゲン、コーン、マッシュルーム)使用でコンソメ炊き、あっさりしていて美味しいのです・・って言い訳がましいかな/汗

そういえば、私、キャラ弁って一度も作った事がありません・・。
blogなどを拝見すると、みなさん、本当に頑張っていらしてスゴいなぁと尊敬!繊細で芸が細やか、愛ですよね〜。
うちの場合、TVなどを見ていないのでキャラっていうのを知らないのですが、「ぐりとぐら弁当」とか、「くまちゃんのホットケーキ弁当」とか「わたしのワンピース弁当」とか考えればいろいろ出来た筈なんですよね・・。やっぱり、ただの無精者だったというわけですな(ーー;すまん・・娘よ。

聖霊へ祈り



聖霊、あなたのうちにあって、魂の静けさをわたしにください。
あなたの平和の穏やかさで、わたしのうちにある派手さをしずめてください。
あなたへの厚い信頼によって、わたしのうちの不安を落ち着かせてください。
あなたの赦しを得た喜びで、私のうちの罪の傷をいやしてください。
あなたの現存をとらえることによって、私のうちの希望を確かなものとしてください。
滝のように降り注ぐあなたの愛によって、私のうちに愛を満たしてください。
聖霊、私にとって、あなたは、光、力、勇気の泉であることを知っています。
あなたの呼びかけを、もっとはっきりと聴き、
広い心で、あなたに従って行くことが出来ますように。
アーメン。




――ウイリアム・ブラウニング
(seseragi祈りの風景 212 2009/5/15より)

イエス


イエスの名を呼びつめよう
入る息、でる息ごとに呼び続けよう
いきどおりがわいたら
イエスの名で溶かそう
弱くなったら
イエスの名でもり上がって強くなろう
きたなくなったら
イエスの名できれいになろう
死のかげをみたら
イエスを呼んで生きかえろう

――八木重吉seseragi「祈りの風景」から





鹿子追記:参考
青空文庫:八木 重吉
個人サイト:つれづれの文庫「八木重吉」

2009-07-29

http://biblos.com/とかhttp://biblestudio.com/とか


http://biblos.com/とかBibleStudio.com: Online Biblical Image Library

ってなonline-bible-siteを見つけました。
コンコーダンスや地図はもちろん、スポルジョンの「朝ごとに」「夕ごとに」のコーナー(かなり短いので抜粋版かな?でも、重要聖句が右に列挙&リンクされたりしています)とかオンライン・ビブリカル・イメージライブラリーとかもありなかなかお役立ち&面白っぽいです。

ただ日本語の聖書は、「電網聖書」のテキスト(なので新約しかない)でしたが・・。

今日のお弁当

せっかく作ったのに「今日は家で食べたい」とのことで学童には行かず、プール指導後に帰宅し食べました。
(コロッケ1/2、卵焼き、スナップエンドウのソテー、人参ポテトコーンサラダ、肉団子一個、ウインナ1/2)
ゆかり、ごま塩、のりたまのミニおにぎり
まぁ、私がいてあげられる時はなるべく一緒に食べたいですけれどね。
さて、これから何をしましょうか・・・

2009-07-28

基本的に何故blogを書いていた(&公開)のかを思い出そう

もう、時間がない!・・のだけれど、ここに書いておく事は実は大切だったのだ。
(とりあえず、このひとことを書いておくだけで、いろいろ思い出せるので私には十分)

それとー
それとー

ごめんなさい!

2009-07-27

"「私って、聖書に出てくる女性では誰に一番似てると思う?」''ななみさんblogのコメント欄より

先日、みなみななみさんのblogを閲覧していたら、以下の様なコメントが投稿されていました

料理 | Diaryのcommentsより
"「私って、聖書に出てくる女性では誰に一番似てると思う?」と
聞いたら「士師記に出てくる、シセラを殺したヤエル」という答え。

私は、武将のこめかみに鉄のくいを打ち込んで殺したりしません!!!!

| りんご | 2009/06/21 2:47 PM |"



うーん、アタシは誰に似てるだろ?
やっぱりロトの妻とかヨブの妻とかな・・・(ーー;


しかしヤエルってスゴいよね〜!


あ、ウチの主人はどちらに関しても「それ誰?」というでしょうけれども・・

2009-07-26

アタシの状況なんかモノともせず、主は働かれる

スゴいよね・・。
なんという恵みだろう。アタシはこれだけでもう何もいらないとさえ思う(こりわ傲慢かなぁ)。
ちいさいちいさいCS、しかも今日はお休みが三人いたし。
けれども、こんなへなちょこを通して、主が豊かに語って下さった・・。
自分があまりにもアレであるゆえ、主がどんなにして下さったのかが良くわかる(じぃーん)。
もう、申し訳なくてたまらない。

行き(朝)も酷い態度であったのに/涙

今日はいろいろ話し合いもあったのだけれど、欠けだらけの中でいろいろな事(トラブル)を遥かに超えて、豊かにお働きになる主をここでもいやというほど感じ出せて頂いた。

いや、今までがあまりにも鈍感だったのかもしれない。主の慈しみは変わりないのだもの。

へなってささくれてスッキリ:今朝の御言葉にゆる・じぃわぁー・ドキ

相変わらず「お手軽」なヤツである(笑
イエス様はこういうわたしに、ここを用意して待っていてくださったのか。

後ろ姿である。少しだけ振り返る仕草。口元が緩んでいるのを感じられて、アタシはスゴく嬉しい。
「まぁ、あんまりほめられることではないんだよ」とおっしゃるに違いない。

でも、イエス様の前では、妙に無理してものわかりのいい大人なんかになる必要は無い。




After the people saw Jesus feed the crowd, they began to say: “Surely this is the prophet who is to come into the world.” Jesus, realizing that they were about to come and take him by force to make him king, withdrew to the hills again, alone."

"人々は、イエスが群衆に食べ物をお与えになったのをみて言った。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である。」イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。"
ヨハネ 6:1-15 



歴然と自分たちにある(あり続ける)「アカン」を語ろう・・ってか、語って頂こう。
1ヨハ1:9の素晴らしさを邪魔しないように。

2009-07-25

【文楽】イエス・キリストの生涯(with Japanese caption)

これは文楽なんですけど、you-tubeにあったのを思い出してmemoがてらpost

Posted via web from psalm42's posterous

最上のわざ

最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。

Hermann Heuvers

能の『復活のキリスト』ってホイヴェルス神父がお作りになったんですね!

Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-24

MEMO: 山谷少佐BLOG/続・目カラ片鱗ノ剥落スル事

ヴィオロンさんのブログ「東洋からの風Ⅱ」の記事をご紹介する。

「自分発の愛から神発の愛へ」

特に、ヴィオロンさんの以下の言葉を、深く心に留めたいと思う。

<以下引用>

目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う(何しろ、神は愛だからだ)

私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。

「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しない、と。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

<以上引用>

山谷のコメント

私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。

この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。

それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。

もちろん、そういうシステムが、この「中間の時」には必要とされているけれども、本然のエクレシアの「本質」は、そういうことどもの中には、ない。「本質」は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。

ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を「合一」のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。

なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から「一」であり、また、永遠に「一」なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。

というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。

うぅーん!これいいですねー!
また後でゆっくり読もうっと!

Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-23

i-mode聖書のメッセージ  木曜-ミニまぐ

聖書
「主は御自分の民を決しておろそかになさらず 御自分の嗣業を見捨てることはなさいません」
(詩94:14)
「神は…御自分の民を退けたりなさいませんでした」
(ロマ11:2)

仕事や勉強やお金をおろそかにしないことは、だれもが努めていることと思います。神様は、もっと大切なものをおそろかにしません。それは私たちです。あなたも神様の宝の民なのです。
今日も、主に心をとめていただいていることを感謝して、聖書の御言葉をおそろかにしないですごせますように。佐々木栄悦

今日のロズンゲン:慰められましたーーーー(;。;)

Posted via web from psalm42's posterous

memo:夕べから思わせられている事

昨日、少佐のblog記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」を読み、引用先の山暮らしのキリストblog記事「主に私の愛を献げること」と(この記事を書きながら、来訪すると目についたので)「愛は分割されてはならない」も読む。

主に自分の持てる愛を100%捧げる事については非常に気になり、夕べも一度起きて黙想してみた(その後、「小さな道」を読みつつ、今まで自分が読んで来たテレーズの書籍にあったことも含め思い出しながら黙想)。

私みたいなものでさえ、主を愛しているかと問われれば「はい(もちろん)」と答えるだろう。

しかし、しかしだ・・。 自己満足で無く、真実、愛を捧げきるとは・・・? また、「100%捧げきり、何も残らない」という状態を想像すればするほどわからなくなってきた。また、この想像は愚かかもしれないとも黙想の途中で何度か思わせられた。 申命記6:4が駆け巡る。 イスラエル人はこの御言葉を反芻したはずだ、現在だって額に小さな箱に入った律法を身につけているくらいだが・・・・。

いったいどうやれば(この事が、真に主の望まれるように、また、主に喜ばれるように)出来るのだろうか? もちろん、これらのことを黙想するのは初めてではない。 今までもいろいろな形で迫られ、突きつけられて来た事だと思う。 単純に解決を見いだせないと、かえって複雑化して、主に信頼しない結果を招いていたのかもしれない。



「私はあなたの他に誰を天に持ちえましょう。 地にはあなたのほかに慕うものはありません」(詩篇73:25)



結局 決心し、祈り、信じるしか無いのだと思わせられる。



主を信頼することであり 主を愛すること




神はあらゆるものを価値あるものとして受け入れてくださいます。私のすべては、人々にとっても神にとっても、とるに足らないつまらないものだと思う時でさえも、神は私のすべてを利用して、私の悲しみ、痛み、失敗、挫折、また、私の喜び、実りなど、私のすべてを世界の人々の救いのために役立たせてくださいます。ですから、自分の仕事や奉仕、生活のすべてを、神にささげる生活が勧められているのです。(「きょうをささげる」とは)

友情の根源は、信頼だと思います。信頼があればあるほど、その友情も深まり純粋なものとなります。相手が男であっても女であっても、この話をすれば、分かっていただけるでしょう。絶対に裏切られることはないという信頼こそ、友情なのです。私のことを、あるいは、むしろ私自身を思ってくれるのは、それは友情のある友人なのです。  友人は異性であれ同性であれ、神の似姿です。(’09年7月-4.信頼と友情)
:きょうをささげるより

2009-07-22

An Anxious Enquiry for a Beloved Son

しかし、兄弟たち。こうした状況にある一個の父親を責めるのは簡単だが、そうした父としての感情を、私たちはどこまで思いやることができるだろうか? さらに云い足せば、自分が一度も味わったことがないような経験をしている人に対しては、審きを下すよりは、同情を寄せる方がずっと賢明であろう。ことによると、私たちも同じ立場に置かれたとしたら、ダビデと同じ感情がこみあげてくる以外ないかもしれない。この現在の瞬間にも、他に非常に重要な仕事をかかえていながら、今は同じことしか考えられずにいる人がどれだけたくさんいるだろうか? 

ここ1−2ヶ月はLaudateの「聖書を読もう」を読んでいる。聖書通読自体はいろいろな形で何年が続けているので、そろそろじっくり読みたい思いがつのっていた。とはいえ、あまり自分の気の向くままに日々読むのもどうかと思い、カトリックの歴史ある読み進め方に倣ってみてもいいな・・と思ったのだ。
月曜日の箇所は、サムエル記下 18.6~17、24~19.5
http://www.pauline.or.jp/bible/bible_od_ord16mon.php
読みながら、以前感銘を受けたスポルジョンのこの説教を思い出し、検索してみた。

ダビデの様子は、読む年代によってずいぶんと違う印象を与えて来た。この箇所ではもっとも顕著だったのではないかと思う。

娘を置いて仕事に出かけ出しているが、夏休みなので就労中の手配を含めいろいろと心煩う。

今朝は歴代誌上22.5~19なのだけれど、アブシャロムの死になりふり構わなかったダビデの姿に、まだ心が向けられている。
素晴らしい王であったダビデの、愚かな父の姿として語られることの多い箇所だが、「愚か」だけで片付けられない思いを与えられている。

神が愛されたダビデ。その生涯をゆっくり思い巡らせよう。

Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-20

phil3:4-14を来住神父が言うところのレクチオ・ディヴィナしてみる

Taize- みことばの黙想: "パウロは記す。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
(フィリ 3:4-14)"


難しいが  phil3:4-14を来住神父が言うところのレクチオ・ディヴィナしてみる(そのMEMOはここにしない)


黙想:今日の箇所が選ばれたのは・・

上記とは余関連無く、個人的には「テモテの練達ぶり」(2:22)というところが響く。

文語は以下参照
wikisourceって検索していて初めてヒットしてきたかも。

Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-19

Laudate | お!今日はチェンバーズですぞ!

今日のことば
日常生活において、あるいは神とのかかわりにおいて、現在先の見えない闇の中におかれている人よ。静寂を保ちなさい。闇の中で口を開くのは間違っている。闇は、耳を傾けるための時間なのだ。
(オズワルド・チェンバース)

懐が深いやねぇ。

Posted via web from psalm42's posterous

今日のひと言より

神を求める気持ちが消え、味気なく、圧迫されているように思えたり、霊的な活動ができないと思えるときにも、うろたえてはならない。そんな気持ちになるもの恩恵であり、よいことなのだ。……私たちが目の見えない人を案内するように、神はあなたの手を引いて闇の中を導いてくださる。見たこともない道を通って、どんな想像も及ばないすばらしい目的地へと。自分一人では、決してこの道を見いだすことはできないし、その目的地にたどり着くこともできない。
(十字架の聖ヨハネ)
via pauline.or.jp(Laudate | 女子パウロ会公式サイト

Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-16

The Prayers of the Rosary in Latin

Check out this website I found at rickmk.com

を・・、これは三年前の私だったら狂喜乱舞といったところでしょうか(笑
結局、挫折しておったわけですが、Creed辺りからまたボチボチやりますかね。
リアルオーディオで聞けます。
カーソル、ポンで英訳も出て来ますね。

Posted via web from psalm42's posterous

The Angelus

Posted via web from psalm42's posterous

観るか読むmemo:バベットの晩餐会

バベットの晩餐会(原題:Babettes gæstebud、英題:Babette's Feast)は、1987年に公開されたデンマーク映画

アイザック・ディネーセンの同名小説の映画化で、同年度のアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞。


あらすじ
時代は19世紀、重苦しい雲と海を背景にしたユトランドの片田舎が舞台である。マーチーネとフィリパは美しい姉妹だったが、牧師である父に仕える道を選び、清廉な人生を過ごしながら年老いていた。やがて姉妹のもとにフランスから亡命してきた女性バベットが転がり込み、家政婦として働くようになる。牧師の死後、村人の信仰心が衰えを見せていたため、姉妹は父の生誕100年を記念したささやかな晩餐会を催して村人を招待することを思いつくが、バベットは姉妹に対して晩餐の企画を一任して欲しいと願い出た。実はバベットには様々な秘密があったのだ。Check out this website I found at ja.wikipedia.org

下記事の来住神父の書籍にこの映画からスピーチの引用があり、興味を持ちました。


『慈悲の心と真心が今やひとつとなった。
正義と平和が接吻をかわすのだ。


心弱く目先しか見えぬわれらは、
この世で選択をせねばならぬと思い込み、
それに伴う危険に震え、おそれおののく。

われわれは怖いのだ。

けれども、そんな選択などどうでもよい。
やがて、目の開く時が来て、われわれは理解する、

   神の栄光は偉大である、と。

われわれは、心穏やかにそれを待ち、
感謝の気持ちで受ければよい。
神の栄光は等しく与えられる。


そして、見よ、われわれが選んだことはすべて叶えられる。
拒んだものも与えられる。
捨てたものも取り戻せる。


慈悲の心と真心がひとつになり、
正義と至福が接吻をかわすのだ。』

・・・・・・・
「そんな選択などどうでもよい」という言葉の真意は説明するまでもないでしょう。選択は大事です。しかし、それを包み込むさらに大きな視野、神の世界があるということなのです。・・・・来住神父

読書memo:目からウロコ キリスト者同士の人間関係

祈りの学校校長・来住英俊神父の「目からウロコ」シリーズの第6弾。
教会共同体における人間関係の対処、つまり、ともに善を行おうとする人同士としての関係をどうしていくべきかを「識別ろ選択」という視点から考える一冊。

もくじ


はじめに
第1章 キリスト者の疲れ
1.キリスト者同士の人間関係
2.「愛」だけでは疲弊する
3.識別と選択
4.教会の疲弊
第2章 自分が選択する
1.「識別」と「選択」
2.選択すると、実行できる
3.決断して実行してこそ、間違いもわかる
4.キリスト者の旅路と祈り
第3章 識別のために考えておくべきこと
1.「神の国」という視野に立つ
2.「神の国」は動いている現実である
3.理想か現実か、ではない
4.自分の内面だけにこだわってはならない
5.「神の業」という言葉
6.独創性
第4章 霊の働きの識別(理論)
1.発想の転換
2.霊とは「他者」である
3.悪霊はいるのか?
4.悪霊は策略を持っている
5.自分の弱点と悪霊
6.悪霊なら仮借なく戦える
7.うわさ、批評
8.会議での発言
第5章 霊の動きの識別(実践)
1.霊の動きを識別する
2.霊動識別の対象
3.感情の味わい
4.悪い霊が自分を動かしている場合
5.善い霊が自分を動かしている場合
6.どいらでもない場合
7.感覚を訓練する
8.過去の経験
9.日々の練習(事後の識別)
10.やってみよう
第6章 神のあわれみ
1.「神の国」において
2.間違っているかもしれない

著者紹介


著者:
来住英俊(きし ひでとし)
御受難修道会司祭
1951年 滋賀県近江八幡市生まれ。神戸育ち。
1975年 電気メーカーに就職した。
1979年 イタリア旅行に参加し、その影響で帰国後、板橋教会を訪れる。
1981年 洗礼を受け、御受難修道会に入会。
1984年 初誓願。
1989年 司祭叙階。
説教や黙想指導の使徒職にたずさわる。
1996年〜97年 イタリアに滞在。そこであるイギリスの会員の言葉“lascuola di preghiera ”つまり「祈りの学校」をヒントとして、信徒と、修道者のための祈りの基礎訓練をする学校「祈りの学校」を、御受難修道会で開く。

著書:
『目からウロコ とりなしのいのり』、『目からウロコ ゆるしの秘跡』『目からウロコ ロザリオの祈り再入門』(女子パウロ会)via shop-pauline.jp

この書籍、私にはとても良かったのでご紹介。
イシドロ・リバス神父の「二人の自分」を読んでいたことも理解を深めるために大きな要因だった気がします。
イグナチオの霊想って、これらから入るととっかかりがつかめるというか、私にもちょっと分かり(「分かる」という表現が適当かは疑問)そうな気もします。
ぐだぐだ小難しくこねくり回していないのもgood!(モノにしていくのは難しいと思いますが)
'06初版とは・・惜しいことをした(まぁ、いつもながらですが「主の時」なんでそか)

2009-07-10

Taizé - 日々の黙想
7月 10日 (金) - 隣人から受けた不正は赦せ。そうすれば、願い求めるとき、あなたの罪は赦される。 (シラ 28:2-7)

2009-07-09

memo:小野寺健氏

ナウエンの「心の奥の愛の声」を訳された小野寺健氏って、パールバックの「大地」を訳された方なのですね。フォースターとかブルックナーも多く訳されています。ちょっとこの辺りのリストを拝見しましたが晶文社の何冊か等も過去に読んだことがありそう。

そして、女子パウロ会の編集の方は、小野寺氏の訳された「群衆のなかで、さよならと手をふる人」(クリストファー・ド・ヴィンク)を読んで翻訳を依頼なさったのだとのこと。

小野寺氏は特にキリスト教やカトリシズムの専門的知識は無かったそう(感心はあった様子)。

Posted via web from psalm42's posterous

神の約束を信じること

相手をえらばずに自分の人生を語ってはいけない。けっきょく、なおさら冷たくされたという気持ちを味わうだけになるからだ。こちらがひそかにもともているものを、他人があたえてくれることはありえない。自分が何かを棄てた経験に同情を期待すればするほど、なおさら嘲笑された気持ちを味わうことになるだろう。

 外の世界に対して自分を閉ざしてこそ、自らの苦しみを契機に自らの心と神の心に入ることができるのだ。神は、私たちが苦しみを分かち合えて愛の真の源へいざなってくれる人びとを、あたえてくださるだろう。

 神はご自身の約束をお守りになる。私たちは死ぬまえに、自分が望みどおり神にみとめられ、愛されていることを知る。それは意外な形でやってくるはずだ。こちらの必要や願望に合わせてやってきはしないだろう。だが、私たちの心を満たし、もっとも深い願望をかなえてくれるだろう。この約束以外に、すがるべきものはない。それ以外のものはすべて奪われたとしても、信仰にひそむこの素朴な約束にすがるのだ。信仰が癒してくれることだろう。(「心の奥の愛の声」ヘンリ・ナウエン より)

Posted via web from psalm42's posterous

今日届いた本

心の奥の愛の声・ヘンリ・ナウエン/女子パウロ会(ちらっと読んだが、もう既に・・泣きそうである)

急がない!ひとりの時間を持ちなさい・・デイビット・クンツ(これ、一円だったのだが、とても奇麗に包装して下さり感謝)

 

この二冊をゆっくり読むつもり。

memo:今日は相棒と、デイキャンプのちらしを児童館へ置いてもらえないかお願いしに行って来た。2館が快諾して頂け感謝。他にも共に祈る時間が与えられて感謝。

Posted via web from psalm42's posterous

最近の読書メモ

とりあえず、

すべて新たに〜スピリチュアルな生き方への招待〜・・・ヘンリ・ナウエン/あめんどう

ありのままの自分を生きる 背伸びと息切れの心性を超えて・・・藤掛明/一麦社

私にとって神とは (光文社文庫) (文庫)/遠藤周作

遠藤周作文学全集 第五巻 おバカさん/わたしが・棄てた・女

パール・バック伝(上巻)ピーター コン /舞字社



Posted via web from psalm42's posterous

2009-07-06

Prayer from the Taizé Community:Podcast

Check out this website I found at taize.fr

これ、本当にとてもいいです!ああ、どうしてpodcastがあるということに今まで気がつかなかったのだろう?これも主の時かな。1ファイル10分程度なのでMP3をDLして空き時間や通勤時に聴いてもいいかも。

Posted via web from psalm42's posterous

渇く

テゼ共同体の歌に、「命の水を求め、夜の闇を急ぐ。渇きこそが私たちを導き、前進させる」という歌があります。ソーニャの渇きはそうでした。その渇きは、「渇いている者は私の所に来て飲みなさい」と言われたお方の所に行って癒されていたから、彼女は夜の闇にあり、渇きながら、その渇きが、渇きこそが彼女の人生を前進させたのです。

  先週、この箇所を考え続けていた時、妻が横で声を出して英語を読んでいたんです。何気なく聞いていましたら、その中に、「役者として有名になるには、渇望する心がなければならない」というような言葉がありました。渇望が前進させていくのです。確かにそういう渇望が大切だと思います。

  ただ渇望が的を外れると、とんでもない所に行ってしまいます。

今日初めてこのblogを閲覧。
渇く(De noche)に関して、ここでもふれられていたのに驚く。

いや、驚くことは無いのかもしれない。主を恐れ、また賛美しよう。

Posted via web from psalm42's posterous

Micah7:7-8

Mon, 6 July
I watch in hope for God who will save me. Though I sit in darkness, the Lord is my light.
Micah 7:7-8

個人的な問題意識から暫し潜伏していたのですが、大体もう大丈夫だろうとこっそり浮上?してみています。

2009-07-05

Taizé - De noche

Posted via web from psalm42's posterous

Taizé - De noche

De noche

Posted via web from psalm42's posterous

Taizé - 生きた水を求めて

―そしてわたし自身も ―、それぞれの「夜」を生きていたのではないかと。しかし、自らの「夜」に気づくとき、この歌の歌詞が表すように、「渇きこそがわたしたちを前進させてくれる」のです。

『・・・(私は渇く)と"You did it to me."(あなたがそれを私にしてくれた)と、この二つは常に結び合わせて覚えていなさい。私たちの目的と大きな関係があるからです。神が結ばれたものは誰にも分けることはできません・・・』

Posted via web from psalm42's posterous