2008-09-30

ガラテヤ書:教会の交わりの中で福音が確認された

さて、先日からガラテヤ書を読んでいます。
合わせたようなタイミングで二年前のwebメモを先日読む機会を与えられましたが、今は Wikipediaにも福音書だけでなく書簡の説明などが沢山あるんですね(ちなみにガラテヤ書はこんなふうです)!
ネットで検索すると礼拝説教やデボーションノートなどがゴロゴロヒットしてくるようになりましたし・・、スゴイです。
(私が言うまでもありませんが「どういう立場の方が書いているものなのか」チェックすることは大切ですが)

今回は、四年くらい前の村上宣道牧師(ホーリネス坂戸キリスト教会)のガラテヤ書講解説教がヒットしてきたので、Memo !
ガラテヤ書全体を郷谷先生と交互にメッセージしていらしゃいますね。

パウロは、わたしが宣べ伝えた福音以外に福音はないと言います。なぜなら「人間によるものではなく、イエス・キリストの啓示によったから」です。啓示は大切な真理です。神を知ることは人間の力ではできません。人間は勝手に「神々」を作り出すだけです。神が、神の側からご自身を示してくださるときに神が分かるのです。それが啓示です。ローマ書1章17節に「神の義は、その福音の中に啓示され」「信仰による義人は生きる」と語られています。
 この啓示は、イエス・キリストを通しての啓示です。神がどのようなお方かは、キリストを通して分かるのです。もともとパウロはキリスト者を迫害していた人です。でもイエス・キリストと出会った。そして生きておられるイエス・キリストから真理を教えられ、福音を信じたのです。アラビヤで沈黙の3年間を過ごし、この啓示が深められ、人生が転換した。旧約聖書の全部を見直し、キリストを指していると分かり、この福音以外にないと確信した。そしてペテロと主の兄弟ヤコブとに会い、教会の交わりの中で福音が確認されたのです。
    ・・ボールドは鹿子による


今回は「教会の交わりの中で福音が確認された」というところが胸に響いてくる。
パウロだって、教会の交わりの中で福音を確認したんだね(じぃいーーーーん)。

ここ何ヶ月か、いろいろ決めることややることがある関係で、話し合いや集まりも多いのだけれど、その度に思わせられていたのは、教会の規模に関係なく「神様は、教会に必要な賜物(をもった信徒や教職者だけでなく様々なことも)をちゃんと備えて下さる」ということ。
これをひしひしと感じながら奉仕に携われるというのは、本当にスゴイ感謝&恵みなんです(しみじみ)。

また恵みがなおざりにされ、人間が主とされるからです。罪からの救いは人間の行いとは関係なく恵みです。なのに良いことは自分のよさ、悪いことがあったら自分の悪さと考える。そんなことはない。まさにあるのは恵みだけです。・・中略・・パウロはこんな自分が福音を語っている、これが恵みだと言います。ああ、恵みです。福音は徹底的に恵みなのです。


村上先生は「恵み」っていうことをいつもこれでもかとメッセージなさいますね〜。
「ああ恵み、我にさえおよべり」が讃美だったのでしょうか。
「我にさえ」というところも強調されていましたっけ。いつも謙遜であられ決してこのことをお忘れにならないんですね。
ここを忘れてしまうと、恵みを忘れてしまうからでしょうか。「忘れる」ということについては三章でもお話し下さっています。

今朝の私のデボーション箇所は4章。
ここでは郷谷先生の語られた、「パウロの罪意識と恵み」そして「一緒にいることを喜ぶ」が強く響いてきました・

おそらくパウロは、自分は取り返しのつかない罪を犯したと時々苦しんだのではないでしょうか。彼はキリスト者を捕らえ、ステパノの殉教を手伝ったからです。それでも神を父と呼んでいい、それが恵みなのだ、とパウロは言うのです。
・・・・・中略・・・・・
一緒にいることを喜ぶことは、夫婦でも親子でも人間関係全てに通じます。キリスト品川教会の吉村牧師が「ふたりで読む教会の結婚式」に、「結婚は『一緒に生きること』が目的です。『あなたがいてくれたらいいんだ』と言えることです」と記されています。教会も同じです。主イエスにより救われた神の子たちが同じ神を仰いで「お父さん」と神を呼び礼拝する。これがキリストがあなた方の間に形づくられることです。一緒に礼拝している、これがキリストのかたちです。
    ・・ボールドは鹿子による


家庭における父親の役割」も興味深く拝見。これ、大事なことが簡潔にまとまっていていいなぁ。
村上先生のお嬢さん(米国で結婚カウンセリングをなさっておられるとのこと)がおっしゃった「愛は成長するものだよね」という言葉に慰められます。
それと、しつけ糸のしつけって、躾からきていたんですね!・・知らなかった(−−;
実は、わたし「しつけ糸」が必要な箇所でもそれをしないで強引に作業を進めて失敗したという・・痛い経験が多いにもかかわらず、相変わらず「なんとかしないですませられないか」と考えるってなお裁縫の人なのです。
ちょっと調べてみると、日本では「しつけ糸」の名称の方が先という節もあるようです(『・・こどものしつけなどに使用される「しつけ」は和服の着物を縫い上げたとき、その折り目を正しく保つために用いる「しつけ糸」からきているという説もあるらしい・・』:参照)。
レンズ豆と一緒ですね。なんだか不思議な気がします。


ロマ書、エペソ書もあり。

2008-09-28

webクリップ: JBTM.orgより「神の足跡を見た者はいない」

上沼昌雄先生:新刊の『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』と『苦しみを通して神に近づく
ああ、やっぱりこれも買ってくればよかった・・。

JBTM.org: 「神の足跡を見た者はいない」2008年9月21日(月):
"・・・苦しみのなかでただ神に叫ぶことで生まれる共鳴、その叫びがいまにでも声となって出て来そうな瞬間、叫び疲れてただ嘆きとうめきが伝わってくる低音の響き、そんな思いと感覚を共有しながら静かな軽井沢の一時をいただきました。そしてそんな感覚を持って、苦しみの道をまとめるように詠っている詩篇の作者の心に思いが向きます。・・・

・・・・。神の取り扱いは霊的なことで、余りにも深いことなので、その足跡
を見ることはできないのです。・・・・"


「心の深く、井戸の底に
下りていくような語り合いをいただきました。」

羨ましいような交流。
けれどもこういう友人関係をもっておられるということは、それに見合うものもお持ちだからですよね。
それと神様の時でもあるのでしょうし。



作家高橋たか子の『霊的な出発』
十字架の聖ヨハネの『暗夜』

帰ってきたらこれら↑についても調べる

2008-09-27

昨日、シカノヨウニ(過去ログのまた過去ログblog)を久しぶりに閲覧したら、なんだか懐かしくて、ツイ読みふける。blogに記録していて良い点は「検索」が出来ると言うことかも。
娘の記録はもちろん、デボメモも結構熱心に記録していたので、御言葉でも検索できたりと、いやぁ、なかなか感動でした。

今朝の娘との聖書タイムは詩篇104:14〜その前後だったのですが
いろいろな食べ物の名前を挙げて、主に感謝。
また、お野菜やお米を作って下さっている方々等のための祈り。

今朝はパンだったので、パン種を発見した知恵を下さったお話とか、イエス様は身近な譬えで語って下さったことにもふれることが出来た。
娘は最近、「えいようまんてんさくせん」という食べ物チェックをしていることもあり、興味津々。
そうなんだよね、イエス様は人々の生活のことも本当によくご存知であられたのだ。
下々のことはわかりませんというような偏ったり高ぶった感じとは全然違ったんだね。
私自身も、食べ物への感謝と、こだわりすぎないチョイスと食生活を思わせられる。
ああ、娘との聖書タイムはやっぱりすごく楽しい。
そういえば、今朝は起きてすぐのお祈りの後にも、「下(リビング)に降りてみたらおとうさんが、イエスさまを信じていたらいいね^^」とにこにこと言う。
本当にそうだね。嬉しかったと同時に、こんなふうに子どものように信じていこうと胸に染み通るような思いと感謝。
二人で祈っているんだもの。



ところで、104:15節の 「油によるよりも顔をつややかにするために」という新改訳はわかりにくいですね。
口語も新共同も「顔をつややかにする油」を主が与えてくれると訳されているのに(NIVは..oil to make his face shine)。何かあるのかなぁ。

私のデボは今日からガラテヤ書。
夕べ、昔の熱烈なガラテヤ書デボノートを読んだばかりだった・・。

2008-09-26

実の親に会うのが、怖い :前島さんのblogから

実の親に会うのが、怖い :家族をめぐるどこにでもあるオハナシ

タイトルに強烈に引きつけられて閲覧したFFJの前島さんのblog記事。
読みながら、どうしても涙を抑えることが出来なくなる。

「親に対する恨みつらみは、まったくないという。それは嘘ではなさそうだ」

そうなんだよね。私もそうだ。
そして、神様は特別な目的を持ってあの環境を与えられたのだと思っている。
その思いに偽りはないんだ・・けど。


はぅ、ちと深呼吸して、祈って夕食準備だな。

palsystem再開

いろいろ思うところあって、palsystem再開しました。
慣れているせいか、注文しながら一週間の献立をおおまかに考えられるし、買い物に歩いていて受けるある誘惑?もないし、使いようによってはやっぱりある程度の品質を保ちながら節約もできる。
段ボールはもちろん、レジ袋やスチロールパックなどのゴミも出ないし、瓶やパック類はリサイクルもしてくれるし。
それと、私はべじ系でも、家族はやはりお肉やお魚も食べたい(喜ぶ&pal好き)ようなのでねぇ。
玄米は自然食品店で買う予定。

食器洗い乾燥機の修理

運転後暫くするとエラー音が鳴って「高温パワー」ランプと「八時間乾燥」ランプが点滅し作動停止してしまう。絶対に出張修理なんだろうと思うと、ショックで暫く放っておいた(だからってどうにもならないんだから、早く直せばいいのにね)。
サービスステーションに電話して、状況を説明。
やはり出張修理が必要とのことで、ついに来て頂きました。
もう4-5年使っているから仕方ないかなぁ。
フロートに油が付着して、動作が不安定になっていたとのこと。
7350円也。

自分で洗えばタダなのに、なんか悔しい(苦笑)
でも、婆母のアタシは産後も結構大変で、これのお陰で本当に助かったのだった(ありがとう!オット様)&やっぱり節水力はスゴイですよ。

最近はべじ系おかずが多いので油はあまり使わなくなったし、洗剤も使わず手で洗っちゃうことの方が多いんですけどね(^^;

End of the Spear

一昨年の初め頃に、アメリカで公開された映画”End of the Spear”については当時から祈っていたのですが、先日、「情熱と純潔」をお貸しした方から、思いがけずDVDを頂き、感激。

本当に、神様は私たちの小さな祈りもひとつとしてお忘れになることはないのですね。

この映画については、JBTM.org:上沼昌雄先生の「殉教」という記事が参考になります。

2008-09-25

Phillips訳についてmemo

回復への道(リック・ウォレン)」を読んでいるとPhillips訳(というか、いきなりPhillipsとかフィリップとだけ引用聖句後の括弧内にあるので「は?」という感じ)というのが目につく。
今まで知らなかった訳なので、ちょっと調べてみた。

Phillips, John Bertram(1906-82)
聖書翻訳家で、著述家、ラジオ放送も行った。
新約聖書の書簡を訳し、CSルイスの序文を得て「若き諸教会への手紙」(1947)として出版する。これは主に、第二次世界大戦中の文民義務の退屈さをまぎらわすためであったが、彼が、自分の行くサウス・イースト・ロンドンの教会の青年会の若者たちは<聖書用語>を全く理解していないと、気づいていたからである。真理を理解できるように表したいという思いと、翻訳をしたいという願いがひとつになって、彼は、パウロの手紙を若者の理解できる言語に訳したのである。そして彼は、期待以上に報われた。若者たちは、初めてパウロの言っていることが分かっただけではなく、パウロの言葉が「自分たちの時代にも深く関わることだ」と考えるようになったからである。各部分や、各書簡の前に注見出しと短い序の注釈をつけ、本文を節ではなく段落に区切り、節番号を各部分の最初にだけふってあるが、そうした形式の現代語訳の最初のひとつである。
フィリップスには五つの方針があった。
言葉は普通の口語でなければならない。原典の意味を保つためには言葉を足してもかまわない。出来上がったものは、神学論文ではなく手紙らしく読めなければならない。流れるような文章で書く。全体的な価値としてよみやすくなければならない。
この結果、翻訳と言うよりはパラフレーズ(言い換え)に近いものとなった。
・・・以下略。
(「英語訳聖書の歴史を知る辞典」A.ギルモア 著 / 本多峰子 訳:教文館より一部を抜粋して引用させて頂きました)

Housekeeper→「境界線」再読→セレブレイト・リカバリー「回復への道」→祈りの日記

先週末、お友達親子がお泊まりに来てくれることになっていたので久しぶりに熱心に家の中を掃除した。
最近、バザー用の小物製作をしていることもあり、わが家ってば、そりゃぁ〜汚かったのだ(−−;
別に取り繕うというわけではなくて、せめてものおもてなしのために思い切って大掃除&整理整頓しだすと、ああ、これってやっぱり気持ちが良い!と痛切に感じる。
生活もイキイキしてくるし、楽しいんだよね〜っ。(人を招くとか、来て頂くっていうのはこういう側面も含めていいものですね)
今日は木曜日だけれど、それなりに快適な環境がキープされており、恥ずかしながらあらためて主婦ってHousekeeperでもあるんだよなぁ・・と強く思わせられている。
と同時に、霊的にもこれ(良い習慣をキープすること)は大切なのだと教えられた気がするのです。

余談ですが実はバサーの小物製作の方は異常にやる気が無くてですね・・、このblogも休んでいたわりにはほとんど進んでいないのです・・(大汗)。何故、制作が進んでいないのか?といえば、それは自分のある問題を片づけていないからだというのは明白(ってか、これも実はぎりぎりまで認めたくなかったのですな・・)で、示されるように「境界線」を再読(厳密には再々再読くらい)を始めると、今まで読んだどの時よりも、実際的な助けもあるし、どのアドバイスも染みわたってくるから不思議(このあたりも具体的にどうだったのかを、一部シェアできるといいかもなぁ)。

そして、いよいよ必要を切に感じ「回復への道」を購入してみた。
セレブレイトリカバリーのグループに実際に足を向ける(現実問題として、秋は教会行事も多いですし時間的にまた、地理的にどうなのかということもあるので)かどうかは、祈りの中で導いて頂くとして、まずは自分が今まで押しやってきたモノにきちんと向き合ってみたりするきっかけを頂けた(まだ「頂けそう」の段階ですが)だけでも感謝。

また、自分の中で、今のデボーションや生活の中の霊的なことについての変化が欲しくて祈りの日記(これ、約千円っていうのはお買い得ですね。プレゼントにもいい感じ)も始めてみようと、祈っています。
(注:鹿子はPDJの回し者ではありません・笑・・ってか、正直なところ一時期は偏見をもっていくらいで苦手でした/汗)

とりあえず、これもmemo!
「正直な心の棚卸し」の途中で、苦しくなって放り出さないためにもね!

2008-09-24

ジョイ・デイヴィッドマン 著「山上の煙」:読みたい本memo


"山上の煙
−十戒をめぐる一考察−

《ジョイ・デイヴィッドマン 著》
現代人の信仰と倫理をめぐる、味わい深くも刺激的な論考。アメリカ共産党員からキリスト者に転向し、後にC・S・ルイスの妻となったが、病のために夭逝した一ユダヤ人女性の記した秀逸な十戒論。ルイスの序文付き。

【四六判/203頁/定価1995円】[新教出版社](ISBN978-4-400-42732-2)"


今日、フランシスコ・J・アヤラの「キリスト教は進化論と共存できるか?−ダーウィンと知的設計−」を購入してみたので(でも、amazonではマーケットプレイズで既に安く放出されていました・・涙)、web検索していたら、同じ頃にジョイ・デイヴィッドマンの「山上の煙−十戒をめぐる一考察−」という書籍が出版されていたのを発見!
最近、本当に忘れやすいので、さっそくメモメモ。
帯には「喜びに満ちた信仰への招き」ともあり・・、ルイスの序文付きってぇのもそそるし、うぅーん、これ、読んでみたいなぁ。
ところで、やっぱりJoyって知的美人ですねぇ。

さて、↓これですが、はちこさん&ぼぼるぱぱさん訳のゲジオ(『ゲノムと聖書 〜科学者、〈神〉について考える』フランシス・コリンズ著NTT出版)が出版されるまえに読みたかったりするんですけども・・
でも、個人的にこの邦題はあまり好きじゃないかも・・って、まだ読んでもいないのにすみません。


キリスト教は進化論と共存できるか?
−ダーウィンと知的設計−

《フランシスコ・J・アヤラ 著》
『創世記』の記述は、ダーウィンの進化論と矛盾しないのか?繰り返し問われ、論争の火種となった問題に明快な答えを与える。米国進化学会会長を務め、カトリック信徒である科学者が、進化論を分かりやすく説明。進化論と宗教的信仰がなぜ共存できるのかを、説得力をもって解説する。

【小B6判/180頁/定価1680円】[教文館出版部](ISBN978-4-7642-6025-2)

2008-09-23

チチ松村 インタビュー - プレイリストから新たな音楽を発見す�

やっと、接続がまともになりだしていたんですが、急にいろいろ忙しくなっていました。
・・が、そりも落ち着き、ちと「気になったこと」をばmemo
チチ松村 インタビュー - プレイリストから新たな音楽を発見す�: "

1.讃美歌:誰が歌っているのでも良い
親がクリスチャンだったので、ちっちゃいときに日曜学校に通わされてたんですけど、そこでよう歌ってたわけですよ。で、讃美歌って、ものすごくいい曲がいっぱいあって、それがちっちゃいときに身体に染みこんでったと思うんですよね。そういうものが、自分の作るメロディーのなかにも表れてるんじゃないかなと。"


へぇえええええええええええええ!
そおぉなんだぁー!へー!

なんか、嬉しいな。ふふふ(とはいえ、親という視点から考えると複雑な心境も・・)。
ふぅーん、と、ン十年前の編集tapeを探す、ン十年前からクラゲになりたいアタシ。

アタシはもともと大好きなんだけれど(まぁ、ここんとこ聞いていませんでしたが)ゴンチチは結構、娘も気に入った様子。



ところで、関係ないんですが某子ども系のアレから頂くお誕生日ソングのCDは激しく「??????」
娘もかなりショックだった模様です。わが家の場合ですが・・。

2008-09-09

暫くお休みします

またしても、iBookがどうにもこうにも立ち上がらないので暫くお休みします。
たまに携帯から投稿するかもしれませんが、なるべく教会のチャリティーバザーに出す小物制作に集中したいと思っています。

では、また(^^)/~~~

2008-09-07

ヘブル語は直球

ちょっと前にも書いた事があったかもしれないけれど、教会学校教師向け教案誌:CS成長に連載されている菊池実先生の「聖書の世界ー考古学と地理の光を当ててー」という記事がとても興味深い。毎回、楽しみだし、いろいろ教えられる。
今回の内容も濃くて、いろいろ書きたい事はあるのだけれど・・。以下の分だけMEMO(原文ママの引用ではなく、鹿子により省略や要約、多少の書き換えがなされています)。


今現在のイスラエルではヘブル語が使われている。
二千年前にエルサレムが陥落して以来、ヘブル語は宗教の言葉、つまり聖書や祈祷文などのことばでしかなかったけれど、二十世紀初頭には日常の言葉としてパレスチナのユダヤ社会にヘブル語が日常会話の言葉としてほぼ定着し、新聞も出される様になった。そこまでの間に面白い事は沢山あるらしい(飛行機等聖書の時代に無かったことばをどうするかなど・・というエピソードは、所属教会の牧師からも以前,聞いていた)。

例えば、電気はエゼキエル1:4「輝きの様なもの」と訳された「ハシュマール」。イスラエルの至るところに観られる「ミクラット」(防空壕)は、民数記35章にある「のがれの町」の転用、聖書で「つかさ」を意味する言葉「ショテル」は「警察官」等々。

日常的に使われる言語であれば、いろんな国と同じで、新語や学術語、外来語にも絶えず応答する必要がある。流行語も生じるし、文法が乱れてくることもあるそうだ。
けれども変化の中に絶対に変らない聖書があることが強みだと菊池実先生は続ける(アーメン!そうだよなぁ!)翻訳なら変るけれども、彼らの聖書はそのまままったく変ることがなく、ヘブル語を支えて来た。

原題に適応する為には、造語だけではもちろんなく、すばらしいのは聖書の大半の言葉がそのまま現代にも同じ意味を持ち(これってやっぱり凄い!)、昔と変わらないで今も人々の生活の中に響いて(菊池先生がつかっておられるこの響くという表現も素晴らしいですね!)いる、人の基本的な営みや性(さが)は、聖書時代と変る事が無い。その中で、神の御思いを託されたヘブル語は、今もそのままに人に届く言語であり、悔い改め、正義、隣人、愛、真理、アーメン、聞き従う、聖さ、平和,神、主、救い等々の言葉が現代のイスラエルで日常的に用いられるという事は羨ましい限りだともお書きになっています。

日常的な呼びかけ等でよく耳にする「シューブ!」という言葉は「戻っておいで!」とか「もう一回!」という感じでつかわれるそうだが、これは日本語の聖書で「悔い改めよ」と訳されている言葉と同じとのこと。
彼らには、悔い改めるることは神に戻る事という認識が極普通なのだそうだ。
(これまた凄い・感動・・!)

ユダヤ人は昔からヘブル語を「聖なる言葉(レション・ハ・コデシュ)と呼んで来た。神がご自身の啓示に用いられた言語であるからであるが、実際、現代のヘブル語に反映されている通り余分な言い回しや,曖昧さが無く、端的、簡潔、明瞭とのこと。

詩編23篇「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」は、ヘブル語聖書ではわずかに四語で表現されるのだそうで・・
「アドナイ(主は)、ロイー(私の羊飼い)、ロー(無い)、エクサール(私は欠ける)」

接頭語や接尾語あってのこととはいえ、訳に間違いの生じる余地は無いそう。
(同じ箇所を英、独、ラテン、ギリシャ語で読めば、この節だけでも9-15語を費やしている)

ヘブル語は抽象的表現を嫌い、意味も明瞭な例として・・
「礼拝する」と訳されている箇所は「ひれ伏す」という具体的な言葉。同様に祈るは「とりなす」であり、「信頼する」は「寄りかかる」、「感謝する」は「的を射る」(これ、面白い!)、「苦しみ」は「狭いところ」(であるから、神は私たちを広いところへ導かれるのだそうだ!)また、「希望」とは「待つ事」だそうです(!)
このように、具体的であり、直接的なのがヘブル語。
言葉がはっきり見え、躍動し、主体、責任、目的、内容を明確にすると続き、最小の言葉をもって最大の神の心を的確に伝えるのがヘブル語であり、アブラハムが選ばれたとき、この言語も選ばれたのだとも。
神が明確な意思をもって救いの計画を進められ、また私たちに迫っている事を感じ、神のメッセージも,伝達の言葉も直球。
言葉は民族性と呼応しあう。アラブ人は日本人と似て建前と本音を使うのに対し、イスラエルの人はまっすぐであり、つき合いやすいそうだ。


もっといろいろあるんですが、このくらいにしておきます。
面白いですよねぇ。これ、連載が終わったら書籍にならないかなぁー。前の号に書かれたものなども無性に読みたいと思うのでした。

2008-09-06

娘のスカートには中心にビーズ入りレーステープを付けました。気に入ってくれたようで、良かった〜♪

さて、お昼の後はCSの準備もせねば!

お揃いスカート完成♪

このリネン、やっぱりバッグやパンツ向きでした。
娘のスカートはともかく、私のはティアードでもありごわごわで重い感じです。何回か着たらバッグにでも作り替えましょう。ほどいてもパンツにはリメイクできませんしね。くすん。
でも、明日は一緒に教会にはいて行こうっと♪

朝のデボメモ:鬼母の件、書きかけの分

このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。(歴代誌 下12:12 /新改訳)


今朝の聖書箇所は、こことラザロのところからカヤパの預言まで。詩編76.

ゆうべ、はちこさんの日記:鬼母と主の贖いを読んでいて、あまりにも自分の姿と重ねあわせ(←鬼母の描写例の方をですが)、胸が締め付けれられて涙が出た。せめて感謝のコメントくらいはしようと思ったが放心してしまい、氷ついたように手は動かず何もかけなかった。

子育てについてはもちろんなのだけれど、同時に主の前に正直である事を痛切に思わせられる。

以前、どこかに書いたかもしれないが、日本人に比べて米国のクリスチャンは「嘘をつかない」ということを大変大切にするように思う(私の知る限りだけれど)。
子育てにおいても「まぁ、いいじゃないの、これくらい。子どもなんだから」という様な事は無く、子どもの方も自分がつく嘘はもちろんつかれた嘘にも敏感だ。
ここ暫く思わせられていたことは、これは、主の前に正直であることの良い訓練になるなぁというか、素晴らしい土台/下地になるのだなぁということだった。

嘘って慣れてしまうものだとよく言われる。
日本人として、「方便として嘘をつくことを雰囲気的によしとする風潮」を巧みに読みとって成長して来た私は、神の前に正直になる事がなんと難しかったことか。
このことに気がつくのにも時間がかかったし、日本人特有といわれるアノ「甘え」によって手をつけられなかった時間も長い。今でも、決してこの事にきちんと対処していないように思える。


memo:正直と赤裸裸(ちょっとこの単語の意味は私の感じているものと違っていたようなので訂正したいのすが、適切な言葉が見つかるまで保留します)とは違うこと。
証の中で、自分の歩みを赤裸々に綴るということは特にweb上では多数、見受けられるように思う。
これは、ネットの特質なのかもしれない(確かに、このことによって助けられる方々は一部あるとも思う)が、blog等では、はちこさんのように抑制の利いた描写くらいでとどめておくのが主にある配慮なんだとあらためて強く教えられた。

・自己憐憫に浸らない為(証は私がではなくて、主が)
・読み手にとっての躓きや誘惑とならないため。


ああ、主の前に誠実に歩みたいな。
拙くとも。
格好わるくとも。

助けて下さい。

2008-09-05

チェックリネンのティアードスカート制作ちう♪&久々の自主保育グループ

せっかく勢いがでているので、しまってあったプリントリネンも引っ張り出し、何を作るかさんざん悩み、結局、スカートに(でも、ティアードにしなきゃ良かったかも、私はおちびちゃんなのでボリュームの無いストンとしたスカートの方がいいのだった・・)。
ああ、メーター数もあともう少し多く買っていたらチュニックが出来たのに。。。くやしひ。
娘のスカートもお揃いで縫えるから、良しとしましょう。
今日は久しぶりに自主保育のグループと活動もしてきました。みんな大きくなっていてウルウルしつつびっくり感激♪
やんちゃだけどめちゃくちゃ可愛い子たちだよなぁ〜。
意外にも虫が苦手みたいなので(娘も苦手なんですよ/アタシの子なのにねぇ)、私が小さい幼虫を指に乗せて、口やお尻をおもしろ可笑しく観察しだすと、だんだん興味がわいてきたみたいで触りたがったり、キラキラした目を大きく開けて嬉しそうにどんどん質問してくる。
ああ、子どもって、ホントに可愛いしおもろいね!こういう時の反応って凄いなぁ、こいうときってどの子も大好きって思える(*^o^*)
このグループにもたまには遊びにこさせてもらおうっと♪

リネンのキャミワンピ完成


チャコペンの印を消すのと、風合いをみるため、早速お洗濯。
前身ごろにはピンタック、裾には裏からちらっとだけ見える様な細いレースがついています。
でも、全体のサイズ自体がちと大きかった・・。まぁ、重ね着用なのでいいのですが。
いつもながらアドエス画像でわかりにくいですね。

2008-09-04

リネンのキャミワンピを制作ちう


今頃ですが・・、リネンのキャミワンピを制作ちう。夏も終わろうとしているのにホワイトだし/汗(しかも白いテーブルの上で作業しているので、この画像ではじぇんじぇんわかりませんね)


彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。



hand*madeに取り組んでいる時は、箴言31章10-31節の憧れの女性に少しでも近づけた気がしてなんだか勝手に嬉しい気分の私です。

しかし、アタシの洋裁はあまりにも大胆すぎるよなぁ。これじゃ人様のものはつくれません。

後はバイアステープをつけて、クロスステッチをしたらお終いだけど、ゆっくりやろうっと。ステッチは無しでもいいかも。
腰が痛いのに、楽しくてつい長時間作業(;。;)←相変わらずばかだわ・・。
バテンレースかなんかをさりげなくつけたいとろだけど(白同士で目立たないからかえっていいと思うのだ)、あんまりにもガーリー過ぎるかなぁ。胸にはピンタックも入ってるし。
これ、やっぱりもうちょっと濃い色で作れば良かったかも・・とやや後悔。

2008-09-03

水曜日は祈祷会なので、普段はお弁当持ちなのですが、今日は久しぶりに腰が痛くてお休みしました。

今日のお昼
トマトとバジルとピーマン入りのパスタ(にんにく、天然塩で味付け):パスタは国内産小麦のもの
今日は久しぶりに粉チーズをかけました。本当はちょっと辛くしたい気分だったんですが、娘の分も一緒に作ったので唐辛子を入れるのはとりやめ。そういえば、もう何年も辛めのパスタは食べていないなぁ。
オリーブオイルではなく、菜種油少々でつくったけれど国産小麦パスタだからかマッチして美味しかった!急いで食べたので画像は無しです(^^;
バジルが結構、冷蔵庫で長持ちしてくれ、フレッシュなまま食べきれそうで非常によい気持ちです♪(明後日また入っていたら今度こそ塩漬けがジェノベーゼだ・・)

おやつ
小豆とレーズンとさつま芋の麦芽糖入り羊羹(これで最後/くすん、でもどんどん甘くなってきますから驚きですね!最初から甘みを追加しないで寝かせておくことで、レーズンなどの干した果物の甘みが引き出されてくるんですねぇ!本当に実感しました。いい勉強になったなぁ。とはいえ、なかなか寝かせておけないんだよね・・つい食べたくなっちゃって/汗)

今日の晩ご飯
きのこ(エリンギ、しめじ)ソースの豆腐ハンバーグ
人参とヒジキと高野豆腐入り切り干し大根の炒め煮
育ちすぎたきゅうりと若布のみそ汁(アタシにとって夏の味の一つなのです)
きゅうりのぬか漬け、ミニトマト
十六穀入り玄米ごはんのミニおにぎり、胡麻塩がけ

webクリップ♪:なるほど!ズッキーニ&ズッパ

ちとズッパについて調べていたら、面白いsiteを発見、しばし読む読む・・。

トスカーナの旅/シエナの料理とお菓子/野菜:
"・・イタリア語は語尾が「イーニ(複数)」になるとそれが細いという意味を持つ。カボチャはズッカと言うが、カボチャの細いのがズッキーニという訳だ。言葉や文法をじっくり考えると、意味が良く分かって面白い。・・"

なるほどぉ・・。その他の野菜のお話も面白いですねぇ。
本場のスローフード食事会の模様も面白かった。
それと、ズッパにはパンがつきものっていうのも(ついているのはサービスくらいに思っていたので)知らなかった。
イタリアのズッパはフランス語で言えばスープである。ただし、伊仏でズッパ/スープというのは私達日本人が想像するポタージュやコンソメを総称してのスープ類というのとはちょっと違って、本来の意味は少し狭いものである。汁もの全般(総称)はフランスではポタージュ類、イタリアではミネストラ類と分類されていることは意外に知られていない。
 では、ズッパまたは仏のスープとは何かと言うと、本来は具沢山で、パンを添えるか沈めるかしてビシャビシャにふやかして食べる夜食のようなもの。つまり、正式にズッパと呼べるのは「パン」が何かの形で使ってあるもの、ということである(奥津説)。

豆のパッサートも作ってみたいなぁ。台所では何かしらの豆がかならず水で戻してあるってな様子も興味深かった。日常なんだよなぁ、これは最近,激しく分かります。

あー、面白いなぁ。やっぱりアタシは野菜や豆、穀類が好きなんだよね。うん。

2008-09-02

Joyful, Joyful/ヤベツの祈り

ちょっと前に所属クワイヤからのMLで、Joyful, Joyfulのソロパートのオーディションの連絡を受けました。
まぁ、アタシとしてはねぇ・・、賛美!ということは別(だって、主を讃えることは、端から見てどうであれ、もうねぇ・・心の中ではアタシの全てなんですから!)として、ブラックゴスペルに関しては下手の横好きってなところが大なので、「そり(ソロ)わ、いいよ」というスタンスだったのだけれども・・、
あらためて歌詞(訳もあり)を見てみると、すっごぉおおおおおおおおおっくいいんですよ・・これが(;。;)(当たり前なんですが・・)

Joyful, joyful, we adore thee,
God of glory, Lord of love::
hearts unfold like flowers before thee,
opening to the sun above.(注:ローリンのは Hail thee as the sun above)
Melt the clouds of sin and sadness::
drive the dark of doubt away.
Giver of immortal gladness,
fill us with the light of day!

・・どうでっしょうか?
もう、こんなアタシが主の前に、花のように心を開かせて頂けるなんて、しかもMelt the clouds of sin and sadnessとか immortal gladnessですからね・・喜びと感謝で一杯になっちゃって、ホントにたまらなくなっちゃうんですよね・・。

Dさん(って、アノ”ゴスペル界の都はるみ:napoちゃん”さんですが/笑)からもMLで[コンサートでソロをやるのは絶対無理!っていう人もいると思うんだけど、それは勿論尊重します。でもソロ部分を練習することって、とてもいい勉強になるし、オーディションといってもわたしとYちゃんと2人しかいないようにするので、前向きに楽しんで練習してみてね~☆]というコメントを頂いていたので、「それならば・・」と、ちと練習してみたんですよ。

はははっは、しかもレイのローリン・ヒルのやつ(^^;
ヘッドホンで聞きながら、もう、そりわそりわ気持ちよく練習させて頂いたんですけれども・・、調子に乗って自分の歌声だけを録音して再生みると・・これが、なんとも・・で、ありまして(ーー;

やっぱ、アタシって賛美の賜物は無い・・・。

はぁああああああああああああああ。

こんなのでも、クワイヤにいさせてもらえているだけ、感謝だす。
ま、わかっていたこととはいえ、実際に耳にすると、かなり落ち込み、暫く、封印しておりんした(^^;

が・・・・、

ねぇ!うお!これもいいんですけど〜!
クワイヤの年齢層とか男女比とか・・層があついよね!んでもってソウルフルじゃない?いいなぁ・・・。
ああ、皆で賛美するのって、本当に素晴らしいんですよね(;。;)
マムズにも、クワイヤの名前を変えたら?っていう、主からのチャレンジがあたえられていて、これって素敵なステップかも!と思わせられ,祈っています!

ママ達(もちろん、これも素晴らしいのですが)だけじゃなくて、もっとこの時間にこの場所に集まれる方々とともに賛美したい!

・・ああ、素敵だね!胸が一杯になってきます^^


あ、ヤベツの祈りに関しては、後日・・/(って、おうぃ、タイトル変えなくていいの?/いーのいーの、神様はいろんなことを合わせて、素晴らしいのを現してくださるんだもん!ふふふう、次なるエントリを楽しみにしてちょんまげ!)

だから、ただ,主の栄光が現されることだけ祈っていったら、それでいいんだな・・いうのをしみじみ教えられた気がしました。(って、この方々は実際,非常に高いレベルでいらっしますが)

やべつーーーーーーー!(きゃべつ?じゃないのよ)んでわ、またね(^ー^)v

をい・・をーい!(汗