2008-05-31

おふぃす・ふじかけ(blog) | 牧師の安息!という特集

おふぃす・ふじかけ(blog) | 牧師の安息!という特集:
"牧師の安息・・・すごくあこがれる言葉です。
サバティカルのようにある一定期間牧会から離れて、というものにあこがれる反面、それが終わった後、再び牧会という重荷を自分が負えるのかどうなのか、不安なのです。

一回荷物を下ろしてしまうと、もう二度と再びその荷物が負えるのか自信がないです。

身近に一回実家に休みにいって、牧会の現場に戻れなかった牧師夫人の友達がいるだけに・・・
| みかん | 2008/05/30 1"



記事も興味深かったのだけれど、この「みかん」さんのコメントを読みながら、来年は引退するのであろう牧師夫妻と、鬱で一時的に帰京していた友人の牧師夫人のことを思い巡らせる。

深谷先生「こころのエッセイ 」より

こころのエッセイ:
・・・私は聞いていて、その方の澄み切った眼差しを見つめながら、話が進展するに従って何か違うものを感じてきていた。
 
 どうも聖霊派の世界は、どこかに静かに成功哲学が忍び寄ってくるものだ。それが愛という名前だったり、癒しという名前だったり、神の勝利という名前だったりする。どこかで十字架を避けて、自分たちは楽な道を歩こうとする。自分たちは神の救いの結果だけを受け取って、そこで栄光を手に出来るという甘い汁だけをすすろうとする。

 十字架を避けようとするキリスト教はキリスト教ではない。たといキリスト教を謳い、人を集めていようともそうではない。一体無傷な神が聖書のどこにいるのだろう。イスラエルの背信で悩み、痛み、キリストとしてこの世に来られ、しかもその愛は受け付けられず、体を裂かれ切って行く神のどこに痛みのない神がいるだろう。人間と共に人間の中で呻く聖霊のどこに、アパティアがあるのだろう。

 痛みに基づく愛が人間をどこまでも包もうとする。担おうとする。それがキリスト教の神の本質であって、それ以外ではない。逐語霊感を謳いながら、一体聖書のどこを読んでいるのか。

その神の傍らに立とうとすればそれだけで否応なく傷を負う。ホセアのように人生を通して神の痛みへの追随を命じられることもあろう。個人史の中の傷が、神の痛みとシンクロして語られているのがホセア書である。

 確かに単純に考えれば、傷はないほうがいいように思われる。援助者は健康さが必要だというのも常識的な話である。しかし、反面常識的に考えて、傷を持たずに現代に生きることは信仰者であっても出来ない相談である。

 世の中の人々と共に、自分もまた傷を受けて生きる。しかし、その傷を神の前にもって行く。神の前にもって行き、神にささげ、神の内側に見ていく。そうする深い作業を通してしか人は自分の傷というものを真珠に変えられることは出来ないように思う。

過度に単純化された何か、は人を誘う。しかし神と人間の間の秘密はもっと深い。

Romans 6; 1 Samuel 15; Psalms 60

roma6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

roma6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

1 Sam15:17 サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。
23・・・強情は偶像礼拝の罪に等しい

psalm60:12 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。




たとい、自分では小さいと思っても、あなたはキリストの血によって贖われ聖なるものとされたのではありませんか。主はあなたに油を注いで祝福したいといつも願っておられるのです。


今日も雨。寒い。

2008-05-30

「お母さんといっしょ」のおねえさんみたい

はぁー!これがAクンの感想だったとのこと・・。(@CS)
なんといいますか、ホッとしたような、こっぱずかしいような・・。

年齢&ビジュアルからいうと、とても「おねえさん」というモノではないのですが・・(爆
素直に喜ばせて頂こうと思いますデスはい。(でないと、落ち込むからさぁ・笑)

i-mode聖書のメッセージ  金曜-ミニまぐ

i-mode聖書のメッセージ:金曜-ミニまぐ
2008年05月30日 08時10分 発行

聖書
「かつてあなたは大地の基を据え 御手をもって天を造られました」
(詩102:26)
「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」
(黙19:1)


神様は、大地の基を据えて天地を創造されたばかりではありません。私たちの人生に基を据えられて、私たちの人生を祝福されたものに創造してくださる方です。自分の思いに固執することなく、慈しみ深い主の御心に人生をゆだねて歩みましょう。
今日も、主を信じる幸いを感謝して、希望をもって過せますように。福島教会ささき

Romans 5; 1 Samuel 14; Psalms 59

roma5:5そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
11そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

1 Sam 14:6・・・多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」 52 サウルの一生の間、ペリシテびとと激しい戦いがあった。

ps[59:18] わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。


memo
今日明日とチアコンベだ。
今まで雨だった事って無かったのじゃないかしら。いつも晴天だった記憶が・・。といっても去年も参加していないんだっけ。
寒いから気をつけてくださいね。
主の祝福を祈ります。

2008-05-29

i-mode聖書のメッセージ  木曜-ミニまぐ

i-mode聖書のメッセージ 木曜: 2008年05月29日 08時10分 発行

聖書
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」
(創1:3)
「(キリストの言葉)わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
(ヨハ8:12)


また新しい出発が与えられました。主は「光をあれ」と言われて、私たちの時の節目を祝し、新しい歩みを守り導いてくださいます。振り返ってばかりでは、暗闇に迷ってしまいます。イエス様を見上げて、主の光の中を歩みましょう。
今日も命の光に照らされて希望をもって歩めますように。福島教会ささき

Romans 4; 1 Samuel 13; Psalms 58

roma4:2もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
3なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。

1 Sam13:8サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。

[ps58:12] そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。


雨が結構強く降っている。暗い朝。
雨のメタファー雪のメタファー」を思い巡らせる。あのエントリー、いいなぁ。
非常に慰められる。

雪の記憶。
「雪の降る街を」を多分、「みんなのうた」かなにかで小さい頃に聞いていた。
祖母の家の近くで、一人で傘を差して雪の降ってくる空を見あげたっけ。
回りはぼうっと密かに明るいような真っ白。シン・・と静まりかえっていて、雪だけが音もなく降り積もっていく。
確かに、包まれるような感じの記憶だし、好ましい記憶の一つだと思う。


カラシ種ほどの信仰・・最近、このことを良く思わせられる。
礼拝説教の中でも、この2-3ヶ月で2,3度ふれられて(主題としてではなく)いて、それも心に残っている。

ああ、今朝はサウルが7日待ってもサムエルが来なかった・・というところか・・。はぁー。
昨日の今日でこういうところが来るとため息をつきたくなるのは、当たりまえだ。この気持ちを無理矢理抑えて進むより、正直に御前に出した方がずっといい。これは恥ずかしいことではないと思う。

それと、神様はきちんと裁きを行うと言うこと。

今日はこれを思い巡らせながら過ごそう。

memo*そういえば、お返事が来てました〜!お忙しいのに、まめでいらっしゃるなぁ&やっぱり腰が低くい・・。自分を振り返り、大反省。

2008-05-28

i-mode聖書のメッセージ 水曜
2008年05月28日 08時10分 発行

聖書
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない
(創28:15)


兄エサウから憎まれて家から出たときにヤコブが主の約束を聞いた時のように、人生の中でもっとも不安な時、主は私たちに約束してくださいます。主はいつも私たちと共にて守ってくださり、決して見捨てない、と。
今日も主と共に新しい人生の歩みを踏み出していけますように。
(福島教会ささき)

をを!藤掛先生の画像発見!

"第5週(#998)6/28,29
「人がストレスに押しつぶされる時」藤掛 明さん
■メッセージ:村上 宣道

聖学院大学総合研究所の講師で、臨床心理士の藤掛明さんにお話を伺う。藤掛さんは長年、鑑別所や少年院の心理技官として非行カウンセリングを行ってきた経歴を持ち、コラージュや絵を使った心理療法の研究もしている。人がストレスに押しつぶされる時の反応についてなど、お話を伺う。"


うわ・・。昨日、撮影で来月の第五週に放映かぁ。相変わらず大変なんですね。でも楽しみ♪
娘が「おとうさんに似てる」だって(え?っそうかなぁ、わたしは筒井康隆さんにちょっと似ていらっしゃるかもなんて思いましたが)

Romans 3:9-31; 1 Samuel 12; Psalms 57

3:9すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。

1 Sam12:15 しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。

ps57:8神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。



Amen!
やはり主はいつも共にいて下さる。ご覧になっている。

御言葉を読みつつこのことを確認(&確信)させて頂けるというのが、聖書通読の恵み。
後はこのことをどれだけ真摯に受け止め、忠実に歩ませて頂くかですよね。
もちろん、いつも「恵まれましたぁ〜!」とか「Jesusサイコウ!(って、アタシはこういう表現はしませんけれども」と大喜びできるわけではないのですが・・。まぁ、これは「神の思いは人よりも・・」ということもありますから当然と言えば当然です。


Memo
ふじかけセンセのエントリー
やっぱりH山さんだー!Tさんもいる〜!
なつかしひぃ・・(;。;)うるうる
6月放映かぁ・・、LL倶楽部のDVDが来るのっていつごろだろう。楽しみぃ♪
FEBCの後になるかもなぁ・・。
Gカレにチェックだ!Googleさまさまである。

クレオパさんのこのエントリー、わたしは「畑違い」でしたし、こんなに高尚な仕事をさせて頂いたわけではないのですが(徐々に姿を現す全体像・・何かを作りあげる課程って言うことに関しては)妙にわかる気がします。
ただ、校正ってのは超苦手&詰めも甘過ぎだしね・・。

横尾さん、こういうことになっていたのね。
でも、これでいいんじゃないかな。このエピソードは横尾さんにとって何ら不利を与えないもの。むしろ栄誉でしょう。
まぁ、私は娘に見せる気はないけれどね。個人での鑑賞は今は出かけられないなぁ・・。行けたとしても混んでいそうでイヤだし。砧公園はいいけどねー!
ゲー術新潮、最新号図書館にないかな。


デボメモは聖書の著作権の関係で、ある期間アップの後に非公開にしていきます・多分。リンクするとデッドになる可能性がありますので、もし必要な情報などがあった場合はコピペっといて下さいませ。すみません。

2008-05-27

夏に新しいアドエスが出るそうだ

これだにょろ〜♪
結構・・・・かわいいじゃん。
これもだにょろぉ♪
カッコイイカモ・・
あー、やっぱり待っていれば良かったにょろ〜(←しかしなんだろ?にょろって・・)
もともとMac派のアタシ、今のアドエスのデザインは激しく嫌いなのだ・・。

リッキー(←知らない方なのですが)元気かなぁ。

Romans 2:1-3:8; 1 Samuel 10:17-11:15; Psalms 56

roma2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
1Sam10:27 しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。
ps56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前にわたしを歩ませられたからです。(聖句引用は著作権の関係で口語訳'95から)



memo
1Sam10:27は確か、昨年か一昨年も抜き出した筈だ。とても記憶に残っている。
今年は、違う意味で抜き出し。


人に勧めた関係で、またしても藤掛明先生のblogの過去ログを漁るが、もの凄くイイ。
こういったものをもっと早く読みたかった・・とも思うが、30そこそこの頃のアタシではわからなかったかもしれないな。
んー、わかる・・というか、理解はできたろうと思うが、今、読んで感じるような深い思いは湧かなかっただろう。これは「人生の四季」も同じような気がする。

Hディレクターって誰だろう、Sさんじゃないの?と思っていたら、H山さんでは?と思い当たる。そっかー、そ、だよね。

「水谷豊の思い出」・・思い出からのクレソンに関する描写が興味深い。
私は「愛しのエリー」だなぁ。予備校ですよ。予備校。といっても、美大の予備校なので木炭とか油絵の具のニオイ。コンペティションでの屈辱。それと夏休みの午前中。

さて、シンドイ読書だった「神の御心にななう妻」だけれど、この書籍を通しての導きははっきりと与えられたような気がする。
『主人が賛成していないことは、神様からはっきり進むなといわれているのと同じ。がっかりするよりはっきり提示して頂いていることを感謝すること。』
これは、チアを通して稲葉さんの文章からも与えられたメッセージだ(「ご主人が反対している方は決して無理にしないで下さいね」)。

とはいえ、これは体のイイ諦めじゃないのか?という思いがないわけではないから、何度も祈り考えた。

で、思い巡らせながら、やっぱり、一時期凄く脱力してしまった(休止期間)。
だって、園までやめて、白い目で見られながら(教会でさえ)やってきた部分って言うのは歴然とあるんだもの。
一体今までのコレは、なんだったのだ・・と。

ちょっと「どこ愛」を再読。
私はコンベンションに行ったら、回りを見て確実に羨むだろう。来年はいよいよ就学だし、今までよりずっとこの思いは強く大きくなるはずだ。
この思いは確実に大きく強くなっていき、矛先が主人への不満に繋がることは明白。カレとしたら、とんだ迷惑だろう。
当然ながら、主は、それをお喜びにならないだろう。

そもそもの動機は「神様がお喜びになる道を歩みたい」だった筈。

今まで、やってきたことは(人には滑稽に見えても)私たちには無駄じゃなかったはず。
いろいろ気づかせられたし、何より夫は信頼して任せてくれて絆も深まり愛情は増したのだ(娘とも)。
ここまでだって奇跡的。感謝なんだよね。

ああ、メモして良かった。少しすっきりしてきたかもしれない。

2008-05-26

Romans 1:16-32; 1 Samuel 9:1-10:16; Psalms 55

roma1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められる・・
1:25 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。

1Sam9:2 キシにはサウルという名の子があった。若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった。

ps55:22 あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。(口語訳)



メモ
今日のロマの箇所を読みながら、watotoで思わせれていたことを何度も思い返す。
彼らが素晴らしかっただけに、真の礼拝の対象を礼拝してしないということがどんなことなのかということなど。
世的に恵まれていることが、神の栄光を現していないなら、虚しい以上に悲惨だということ。
1:20の後半では「弁解の余地はない」といわれているのだ。

サウルは美しかったんだよね。民が望んだとおりのビジュアルだったんだろうな。
ふと、思ったけれど、サウルも恵まれすぎ・・といえるかもしれない。恵んだのは主なのだから、それをあれこれとはいえないけれど、恵み(賜物)を無駄に・自分の好き勝手に使うとどんなことになるのかが、サウルの一生を通して現されている。
そして、ロマ書を書いたパウロはサウルと同じ名前だったっていうこと。彼の変貌を思う。

ダビデは、自分の重荷は主に委ねることとか、主は必ず救って下さると確信しているけれども、主の前にこんなに叫んでいるんだよね。
主の前には叫んで良いんだよね。お祈りの時、イイコぶる必要はないのだ。
綺麗なお祈りをしていながら、神様に不信感が一杯で身近な人にぶぅぶぅ悪態をつく・・ってなことは・・なんともはや・・だよなぁ(苦笑&痛っ)



昨日のCS、あれもこれもと盛り込みすぎ・・・。
フィギアも多すぎたかも知れない・・・(しゅん)。
一番小さい子は、ちょっと飽きてきていた(まぁ、これは年齢差があるから仕方がないんだけれど)。
ポイントを覚えていてもらうために引き算をすることは、つくづく大切だなぁ。

でもさぁ、アタシ、Aクンがいると実はすごくヤリニクヒ・・。なんか教官に見られているみたいなんだよね(苦笑)ま、乗り越えようぜぃ・・(いや、コレ、もしかしたら正直に言った方がいいのかもなぁ)。

礼拝後の奉仕者会の間、娘はお友達と遊んでいた。
ちょっと時間も長かったからか、喧嘩・・というより、途中から上手くいかなくなってきたようで(煮詰まっちゃったのかな)最後には泣いてやってくる。
自分で対処できるように導くけれど、「なんか、それってむずかしい・・」とひと言。
ふぅー、教えるのも難しいです、はい。
まぁ、ちょっと教えたからって、すっぱりすぐに上手くいくわけでもないしね。

2008-05-25

Romans 1:1-15; 1 Samuel 8; Psalms 54;

1:3 御子に関するものである。
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(口語訳)

8:5 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
8:9 ・・・ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」
8:22 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」)(口語)

ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。(新共同)



メモ
今朝は雨。梅雨の時期らしい天気になってきた。
一人でQTが持てたことを感謝。

・今日からロマ書だ。福音を恥としない。昨日のWatotoの感動が甦ってくる。御子のこと。信仰。
・ダビデの状況を思う。あんななかで読まれた歌(詩篇54)だ。
・サムエルの息子達のことが、まず躓きになっている。サムエルはエリのもとで学んでいるんだよね・・多かれ少なかれ生活全般を通しての手本にもしていた筈だ。
・「深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示」してくださった。選んだのは民なのだ。
主はいつも、私たちに「選択の自由」をお与えになる。

・・やっと語って下さったのじゃないだろうか。
静まる必要を痛感。主よ感謝します。

さて、祈りつつCSのお話をおさらいしよう。

2008-05-24

Watotoのミニコンサートへ


napoちゃんのblogを見て、どうしてもいきたくなり、Watotoのミニコンサートへ。
ランドマークプラザ1Fガーデンスクエア(オープンエリア)に行ってきました。
無料のイベントでしたし、もの凄い人!!階段の方までびっしりでした。
ちょっと出遅れてしまったので、見られないかな・・と思っていると、親切な方が「お子さんがいらっしゃるんですからどうぞ、前へ」とディレクターさんや係のお兄さんの横に通して下さいました(感激!ありがとうございます!)。

東アフリカのウガンダでは、内戦やエイズで、孤児となったこどもたちが沢山おりWatotoのメンバーも皆、エイズや戦争などの惨事によって親を失っていたりと、私たちには到底想像もできないような悲劇を体験しています。けれど彼らは言うのです。

「私たちは哀しい話をしに来たのではありません。希望を伝えに来たのです!」

30分だったのですが、主の栄光が現され、Watotoの素晴らしさも充分に感じられました。
こども達の喜びに溢れた讃美とリズミカルで情熱的な圧巻のダンスパフォーマンス!イキイキとした証し。
素晴らしかった・・。
娘は買ってきたDVDを見ながらさっそく踊っています。
教会にはザンビアからお嫁にきた方もいらっしゃる(ただ今、育児疲れでまいっている様子)ので、DVDを見せてあげたいなぁ!きっと元気をもらえるはず!

Watotoのサイトでも映像を見ることができるので、興味のある方は是非、アクセスして下さい。
情報をくれたnapoちゃんに感謝!
この口語訳テキスト、使徒の28:17にある「主立った」が「重立った」になっている。誤植かな。

娘は私がPCで聖書を読んでいるのが「?」だったようなこともあり一時的にPC読みはやめていたが、イイ意味でわかる(理解)ようになってきたかな。後ろから見ていて読めるところを読んでみたりもするので、暫くデボメモをblogに再開しようと思ったのだ。
といっても、環境的にとても「デボーショナルな時」なんっつーものではないのだけれども。・・んー、でも神様は聖書を通して語って下さるのを信じている。upするしないは別として正直に誠実に続けることかな。

Acts 28:17-31; 1 Samuel 6-7; Psalms 53

act28:20事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」 22 わたしたちは、あなたの考えていることを、直接あなたから聞くのが、正しいことだと思っている。

1sam6:3彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。

1sam7:9そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。

ps53:2愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。(引用聖句は口語訳)


memo

1sam6:3を読みながら、イザヤ55:11 を思い出す。口語だとちょっと感じが違うけれど「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」 むなしくのニュアンスを思い巡らせる。

そういえば、先日やっとコパンの番組(LL)を録画したDVDを観ることが出来た。
証しの中で、詩篇103編の「あなたの一生を良いもので満たされる」という箇所が引用され(この讃美曲も流れる)、後半の村上先生のメッセージではこの「良い物」という言葉はヘブル語で「成熟」という意味もあることを知り、ああそうなのか・・と深い頷きがあった。

「成熟」「大人になる」

このことは密かに私のここ数年の課題。
トゥルニエの「人生の四季」の内容がさざ波のように寄せては返す。

「おとなになったときには、子どものことをやめました。」とパウロはいう。

でもね、鹿ちゃん、すっぱりきっぱり出来ない自分(他人)を受け入れよう。
うだうだを引きずりながらもその中でだってある部分では、私たちは聖を見あげ選んでいくことが主にあって出来るんだもの。
そこを見よう。そこから励ましを受けよう。

一生、続いていくこと。忍耐。

早朝、娘の夢を見て目が覚めた。
家の仕事のお手伝いをしてくれて、それが済むと一人で表へ出かけていこうとする。
「え?ひとりで?危ないじゃない・・」
止めようとするが、娘は小走りに公園の方へ向かっていってしまう。
夫もいるのだが止めない。
私は気をもみながらも、娘は成長したのだということに気がつく。そしてなんだかそのことが淋しい自分を見て、そろそろ娘への対応(と自分も)に軌道修正のようなものが必要なのかも知れないと思わせられている。

不思議なことに、娘が小走りしていた公園へ向かう道は、昔の祖母の家から裏の公園へ向かう道だった。
娘は白いレースのリボンをしていて、走るとそれが揺れ、その後ろ姿がとても印象に残っている。


パネルシアター用のフィギアは殆ど仕上がった。闇と光を感じてもらうために懐中電灯をつける箱も制作。
お塩も用意して舐めてもらおう。
娘はとてもとても楽しみにしている。
フィギアの制作過程も興味津々で、自分もまねして折り紙やクレヨンで作っていた(夕方、発表もしてくれた・笑)。
「お母さんがやっていること好き?楽しい?」と聞くと「うん!」との答え。
「じゃぁ、よおーっく見て覚えていてね。聖書もよおく学んで、高校生くらいになったら、あなたも幼稚科さんにやってあげられるようにね」
「うん!でも、幼稚科さん、いるかなぁー」
「与えられるようにってお祈りしていこうね」

この奉仕が与えられていること、本当に感謝です。



さて、娘との聖書タイムを始めよう。
今日はヨシャパテ王のお話と1サム2:9から「足をまもってくださる」

2008-05-23

Acts 28:1-16; 1 Samuel 4-5; Psalms 52

act28:16「・・パウロは、ひとりの番兵をつけられ ・・」この番兵はパウロの話を聞いたかな。

1sam4:15 その時エリは九十八歳で、その目は固まって見ることができなかった。

Ps 52エドムびとドエグがサウルにきて、「ダビデはアヒメレクの家にきた」と告げたときにダビデがよんだもの (聖書箇所は著作権の関係ですべて54年版口語訳から引用)


memo
主牧の目のことを祈っている。
決してエリの様な祭司ではないけれど、高齢であることを覚えよう。
心配なだけでなく、正直なところ個人的にとても哀しい。哀しいと表現するのが適切でない気もするが。
もうほんとうに時期が来ているのだということを突きつけられたような気持ち。
私のようなものがこうなのだから、ご本人は・・なんて、余計なことも思い巡らせてしまう。

別件で検索していると、元気なユースリーダーのblogがヒットしてきて、2-3日拝読。
いいなぁーと大変好感を持つのだけれど、自分の中では彼が薦めているR・W牧師とかウィロークリーク関係の書籍など(どれも読んでとても鼓舞させられてきたのだけれど)の中に出てくる「効率を求める姿勢」に対しては、やや辟易気味。ややじゃないかな。

Cコンベンション、実はまだ申し込んでいない。
なんだか機を逸してしまったような・・、「行きなさい」という導きがないような・・。
しかし同時に「時が良くても悪くても」を少し思わせられる。娘をチルミニに参加させてあげたい思いもあり。
もう後一週間だけれど、ぎりぎりまで祈るつもり。当日参加申し込みでもチルミニに入れるだろうか。

今週は娘も風邪だったり、私も具合が悪かったりが続いている。
昨日からお腹を壊していて辛い。娘が2回祈ってくれた。
ああ、CSのパネルシアター用フィギアを準備しなくちゃ・・。「地の塩、世の光」娘はとても楽しみにしている。

2008-05-20

「ジャパニーズコンチネンタルズ」コミュニティ

mixiに「ジャパニーズコンチネンタルズ」コミュニティができました♪

管理人は「えいさん」!!なので、よろしくです^^

盛り上がると良いね♪お祈りしてます!

あ、mixi、まだの方は、私で良ければ招待させて頂きますので、メール(IwillsayitagainRejoice@gmail.コム)
とかくださいまし。

2008-05-18

キンキョー

私以外には興味のないことばかりだと思うけれど・・、まぁ、記録と言うことで休止中していた間のことを少し振り返ってみる。

相変わらず娘との時間が大半ではあるのだけれど、空き時間は掃除に明け暮れていた気がする。
なんというか、猛烈に掃除がしたかったのだ。
精神的にもいろいろあったかと思うが気候のせいもあるだろう。

合間にトゥルニエの「人生の四季」をゆっくりと読書(内省しまくりかなり落ち込んでしまう、10代に失恋したときのような切ない辛さまであり)。

肉体的には、慢性的に疲れが取れない状態が続く。
昼にそれなりの時間歩いたり軽い運動をしたり睡眠時間を沢山とっても、朝、すっきりと目覚めることがない。

暫くしてから藤掛先生のblogをテキストファイルにしたものを読んだり(以前のスキンが苦手だったのと、ネットを意識的に避けていたので)・・。
『いろんなものを抱えながら&引きずりながら・・それでも聖へ向かっていこうとすること・・』を思い巡らせたりしながら徐々に元気をもらう。

CSの準備や導きのための祈り。
gospelWSの為の個人練習(といっても部屋で娘と歌うだけだけれど)。
これらが日常的にあったということにもずいぶん救われた気がする。

hand*made関係では、フェリシモの編み物キットのはじめてさん向けのものは簡単すぎて飽きてしまい、かといって大作に挑戦する力量はまだなく、なんとなく宙ぶらりん状態。
・・が、リネンの季節(今では冬も大活躍だけれど)到来でソーイング熱が上がり、先日はついに布を10M注文(汗。


先週は、
月曜日の音楽教室でぷち発表がぼろぼろだったため、一念発起。週を通してやや鬼連モード。
火曜日はラニーさんのgospelWSがあって、久々のお友達一家ともお会いできて感謝。
水曜日は祈り会とお話会。CSの打ち合わせ。
木曜日はnanaha(抹茶&日本茶カフェ nana's green tea)でランチ。アフタヌーンティーか無印で娘用の雨靴を買おうと思ったんだけれど、サイズが無くてうろうろ。結局、SUPER TIPPYで真っ赤な「まんまゴムやんけ」ってなデザインのものを娘が気に入り購入(800円)。
金曜日は国際子ども図書館で「チェコへの扉−子どもの本の世界」展と図書等を閲覧。ここは素晴らしい建造物&施設で無料!
その後、緑溢れる上野の公園等を散策したり・・日差しが強かったけれど木陰涼しくて気持ちよかった。
土曜日は近所の図書館に娘の予約図書が届いていたので取りに行き、リネンのカシュクールワンピとかギャザーの入ったマルシェバッグの型紙が載っている書籍を探してあちこち歩く。
今日は、CSがフランネルボードを使った「赤ちゃんモーセ」のお話。工作は「赤ちゃんモーセ」のパタパタまんが(折って塗って切って・・という感じ)。愛餐会。

通読は、ヨブ記や師士記が終わって、今は使徒の働きと詩篇とルツ記。
ルツは今朝からで1,2章を読んだのだけれど、近年にない感動。多くのことを教えられた。

そういえば、WSの日にはちょうど詩篇42編がその日の通読箇所にあたっていて感涙。
この日からblogを再開しようと思い、ちらっとアップもしたのだけれど、思うところあって取り下げ。


・・選択。
何かを諦めること。

出来なかったこと。失敗してきたことの中にある豊かさ。
(もちろん、主にあってなのだけれど)

気がつくとそういったもののことを考えている。
けれど、上手く言葉に出来ない。

しなくても良いのだという思いもある。